動かず、動けず、動こうとせず

 

マインドはじっとしていない、いつも動いている、それがマインドの本性だからだ。

動くこと、何かになろうとすること、どこかに向かうことがマインドの本性であり、常に未来を見ていて、沈黙にとどまることが出来ない。
「いま、ここ、あるがまま」に留まることが出来ない、それが私、この想念の意識の私だ。

 

マインドは、必ず自身を主客に分割し、対象である外を見ていて、その見ている自分自身を見ようとはしない。

マインドは、自分の見ている、内側も外側も、すべてが分離しており、「すべてが自分自身ではない、自分以外である」と思っている。

 

マインドの中身とは何だろうか、
それはイライラと、葛藤と、矛盾と、悲しみと、苦しみと、絶えざる願望、さらにもっともっとと欲する欲望、快楽、憎しみと不安、恐怖と、嫉妬と、軽蔑と、優越感と、尊大と、すべてを利用することではないか、この心というものがマインドではないだろうか。

そして過去に生き、未来に理想を抱き、良くなろうとする。

そして進歩していると考え、取捨選択し、判断し、善悪を区別し、等級を付け、常に非難する。

 

自分が見ること、聞くこと、感じること、考えること、知ること、そして知識も、記憶も、過去も、現在も、未来も、思うことのすべてが、行うことのすべてが、マインドそのものではないだろうか。すべてが自他の分離であり、間違っている。すべてが偽善である。それが私だ。

 

このマインドとは私自身である、私がマインドなのだ。

この私である自我も、そしてこの私自身である観察者や、見る主体、知識を蓄えている者、知る者も、瞑想しているものも、すべてがマインドであり、真の私といわれる「気づき」ではない。

 

私は「気づきという意識」ではない、私こそがマインドという過去現在未来という時間であり、恐怖と悲しみと憎しみに代表される「自他の分離という意識」なのだ、「覚醒していない意識」なのだ。この「次元の意識」なのだ。
それは、条件付けられている脳の結果だ、脳が変わればこれらの意識も変わり、「気づきという意識」に近くなるのだ。真の私とは脳の結果に左右されることのない、始めから変わらない気づきという意識だといわれている。
「見るものは見られるものである」の非二元・非分離の全体である意識だと言われている。

 

私は『「気づき」という愛の意識』ではない。
この私である「愛ではないこの意識」は常に自他を分離し、判定し、判断し、悲しみを生み出し、苦しみに生きている。

 

この私・マインドは「気づき」という意識ではない。
この思考・マインドという意識は、肉体や精妙なる身体を自分だと思っており、肉体の感覚と同一視して、
「自分は身体であり」したがって生まれ、そして年を取り、病気になり、死んでいくと思っている、それが輪廻していく「第一想念の私」である。この想念である自分が肉体とまったく同一視している。
そして、その「第一想念の私」は頭脳を経由したマインドに覆われてしまっていると言うことだと思う。

従って、そのままマインドの意識が頭脳経由で「第一想念という自我」を包んでしまい、この意識を自分の意識であると錯覚している以上は、「気づき」という覚醒した意識(覚者たちによって真の私といわれている意識)とはまったくかけ離れているのではないか。

 

従って、元に戻って、
この『自分が動く』ということは、即ち、思考・マインドが動くことそのものであり、従って、その結果、動くことのすべてが、恐怖と悲しみと苦しみを生み出すのだ。それを進歩している、良くなっているというのだ。
(真の私は動いていないと覚者はいわれる、ただこの真の私と繋がるには、このわたしである「第一想念の私」はこの「第一想念の私」を生み出した大元である「真我」に目を向け、接近し、そうしてこの真我の中に戻らなければ成らない。真我として復活するには真我に溶解しなければならない。)

そういうことであるので、このマインドである私・自分の見ることとは、すべてが断片しか見れず、すべてが錯覚である。
すべてを対象としてみてしまう。(錯覚しか見れない)だから見ているもののすべてが幻想でしかない。
 

このマインドである自分の行うこととは、すべてが、恐怖と欲望に基づき、悲しみと苦しみと恐怖しか齎らさない。

 

このマインドである自分の思うこととは、すべてが時間の枠内にあり、思うことはすべてが自他を分離し、すべてを利用しようとする欲望に染まっている。

 

このマインドである自分の存在は、すべてが、分離という錯覚であり、この私の存在そのものが「在る」といわれている実在ではなく、真の私ではないのだと教えられている。

 

このマインドである自分のする瞑想は、すべてが時間と空間の次元内にあり、この二元分離の限定された体験と経験でしかない。
この次元には対象(客体)と「私・観察者」が存在しており、主体と客体の区別がない「気づき」という意識ではないところの幻想・想像の世界である。

 

この自分は何をしても、何を願っても、何を行っても、悲しみと、苦しみと、恐怖と憎しみしか生み出さない。

分離と幻想そのものであるマインドという私は、何を行い、どのように生きても偽善しか生み出さない。

 

このマインドである自分はどのように生きようとも、何に到達しようとも、どのようになろうとも、この恐怖と苦しみと、悲しみと、憎しみから逃げることは出来ない、私自身がマインドだからである。

 

マインドそのものがこの自分であるからである。

 

だからどこにも往けない、何にもなれない、どこにも動けない、なにも出来ない、何もしない。

じっとすることすら出来ない。

この私のすること、なす事、願うこと、あることのすべてが苦しみであり、憎しみであり、悲しみであり、恐怖である。

従って私は、動けない!動かない!何も出来ない!何もしない!!

そしてそのとき『私は何もしていない!すべては起きている!ということが謂える』ことが起きるのかもしれない

 

ここから以下はラマナマハリシの「あるがまま」から抜粋です

 

『人が世界を見ているとき、人は真我を見ていない

 

人が真我を見るとき、世界は見られない

 

だから

 

真我を見なさい、そして創造はなかったのだと悟りなさい』

 

『見るものなくしては見られるものは存在しない

 

見るものを見出しなさい、創造は見るものに含まれているからである

 

何故、外側を見続け果てしない現象を説明し続けるのか』

(久保:頭脳を経由して世界を対象として創造している・または投影しているものこそが、根源的な自我というマインド・錯覚であるということであろうか)

 

明らかに、世界はあなたの想念なのだ

 

想念とはあなたが投影したものである

 

はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される

 

世界は私によって創造され

 

この「私」は真我から立ち現れる

 

そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば世界の創造の謎も解明される

 

それゆえに私は言うのだ

 

「真我」を探求しなさいと』

ラマナ・マハリシ「あるがまま」より

 

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