自分の内側が良くならなければ、自分の外側も良くならない
よく覚者は外部は内部だと云われます
自分の近くにあるもの、自分の外部・環境それは
肉体
経済状況
親
子供
近所の方々
同僚、友人
会社
自分のこの肉体の活動の範囲で知覚できるもの
自分の近くにあるもの・人・お金・状況
それらは正確に「自分という現在の自我」の状況を現してるのだと
まさに、それらの外部は「立ち向かう人の心は鏡であり、己の自我の状況を映している」であると思われます
この「自我のマインド状況」が、色々と姿を変えて
ある時は親として
ある時は子供として
ある時は隣人として
ある時は会社として
ある時は経済状況として
ある時は上司として
自分を映し出しているのだと思います
ですので
それらは相手ではなく自分そのものであり
それらの外部をかえるのではなく
内部を変える事(真の私ではないこの偽我を受動的に凝視すること)が、
外部を良くする方法であると云うこと
それが偽の自己を発見する(偽我を発見する)方法であること
これこそが
自己からの開放の道であること
自我の終焉の道であること
であるので、この自分を取り巻く問題の対処とは
自分の自我のマインド状況を正しく良くしていかねば
自分を取り巻く外界も決して良くならないという事だと思われます
外部を変えるには、外部に現れた内部を受動的に凝視するのです
私は先日、夢を見ました、そしてその或る夢から醒めたとき、これは「高次の私達」からのメッセージであることを直ぐに感じられました
その夢の中でのことでしたが
或る県知事に、テレビのレポーターが取材してそれをニュースキャスターの誰かが解説していました
そしてテレビの中でその解説者が言ったのです
「その県知事は県民を食い物にしている」と、搾取していると
夢から醒めて、これは夢独特の高次の私達からのメッセージが頭脳の解釈でゆがめられている結果
そうなったのであって
これは自分の事を指し示しているのだと直ぐに分かりましたが、
なんの事かがそのときはハッキリしなかったのです
それが
近頃になってそれがハッキリと分かるようになりました
外部の他人の中の心として、私の内面を示してきたのです
その他人の心こそ実は自分の「自我の心」そのものだったのです
自分が認識する他人の心は実は自分の投影なのです
それはあの夢の中で「自分の内面の虚偽」をレポーターという形で夢で示されたように
そのようにして夢という形で示してきたのです
自分の認識される範囲の友人や会社の同僚として、
そのシステムの欠陥という形として自分の前にハッキリと示されてきました
私の認識している肉親や友人の姿は、実は私を投影したものであったのです
私の認識し、知覚している同僚や会社のシステムは、実は私の姿だったのです
自分の奥に潜む内面はこのようにして、自分の前にいる肉親や他人や、
友人や同僚の姿やシステムとして映し出されているのであり
実は
その認識されるものは私の中にあるということ
その自分を変えなければ、投影されている外部も良くならないことは、多くの覚者の方々が示されている通りです
この事実に今、気がつきつつあります
自分で自分をだましている虚偽はこのようにして発見されていきます
自我のマインドを発見することにより
この虚偽の自分を、直視すること、ハッキリと見ること、そのこと自体が、
それらの自分から離れていくことだと思われます
その偽我を見ることそのものが、次のステップである、行為と行動を開示していきますが
最初にあるものは、この偽我の内面の欺瞞と偽善をあるがままにハッキリと見ることだと思われます
見ることは行うことそのものだと思われます
自分の内面の、自我であるマインドの偽善性はこのようにして
立ち向かう人の心という媒体を通じて、映し出され
自分のマインドである「自我の真実の姿」が自己イメージ無しに「他人の心」として知覚されます
「虚偽を虚偽と見ること」の中に
そのまま、その虚偽から離れ、真理が顕現するプロセスと作用が始まります
と
そのように多くの覚者から教えられております
高次の私達、永遠のパーソナリティー、観照者は最初から此処にあり最初から此処で生きており
最初から愛であり、最初から智慧であり、最初から力であり、私たちのこの自我であるマインドの実存というレベルや
段階にかかわらず活動しているといわれています
重要点は、この自我というマインドの想念の凝縮体である、この「偽我」であるこの自分です
この「虚偽である偽我」、真の私ではない「この人格・個人」がこの意識を覆っているのですから
この意識を覆っている虚偽を取り払う唯一の方法が求められます
それこそ自己観察・そして八正道
「この意識を覆っている虚偽」自体の意識が、
それ自体である「この意識を覆っている虚偽」を
自分の外面として認識されるところの、外部の出来事として、
映し出された他人の心として
即ち、立ち向かう他人の心として
また内部に発見される偽物の自分の姿として
この虚偽の自分の姿が映し出されており、
これを自分自身の現実の姿として、
自分の現況の現実の姿を「見る」事の中に
その受動的な凝視・直視することのなかに
変革が始まるものだと思われます
この「自己観察」(即ちこの偽我は対象として内部に外部に投影され、認識されるが)を通じて
「真の私ではないもの」の内部と外部に於ける発見により
この偽我(真の私ではない自己・自我)から離れていく
「遠離」というプロセスが
この「自我というマインド」が覆っている意識領域の中で始まるのだと思います
「この高次の意識を覆っている虚偽(マインド)」が意識の中から離れていくことが始まることは
この最初から内在している「高次の意識である私」が意識の座に徐々に
その意識領域を拡げることでもあり
多くの気づきが始まることも意味していると思います
その気づきとは高次の内在する意識の事であり
その内在している高次の意識こそ
真の私である高次の愛であり、高次の智慧であり、高次のパワーであり
自我意識を全く持たない全体性であり、非二元性であると教えられております
それが訪れるためには
この今のところは、偽我のマインドによって覆われてしまっている、この意識の座を
掃除をしなくてはなりません
来て頂くには、汚れているものを清掃しなくてはなりません
その掃除をする方法こそ
自己観察である注意・見ることそして気づき
それが「外部は内部であり、この内部は外部である」のだとおもいます
ですので、此処への路は、自己観察こそが鍵を握っていることになります
その要点は
「この意識を覆っている虚偽の私」自体の意識(マインド)が、
それ自体である
「この意識を覆っている虚偽の私」(マインド)を
見ること、注意すること
これだと思われます
マインドによるマインドの自己観察と自己想起です
しかしよく観察すると、そこに働くものは
それだけではないとおもいます
このマインドが去来するこの「意識の座」そのもの、からやってきて働くもの
より高次のマインドからこの低次のマインド意識領域で働いているもの
それこそ
「見ること」
「注意すること」であり
この「見ること」「注意すること」は
もの凄い力を秘めています
それは内在する「高次の意識」から来ている
「高次のマインド」であり
それらは「気づき」から派生しているのだとおもいます
これこそクリシュナムルティーの云う
大文字のマインドMIND
気づきではないけれど
私たち人類の集合意識のマインドでもない
意識・MIND
人類の現在のこのレベルのマインドを小マインドとmindと小文字で云えば
其の注意(精神集中ではない)は大文字のMINDといえると思います
それは「気づき」という全体性・非二元性との中間にあって
私たちを覚醒へとつなぐ意識レベルだと推測されます
従って私たちは
この根源から派生したものに同調し
この
「見ること」「注意すること」を
「気づき」に至る方法として使わしていただき
マインドによって外部内部と認識され知覚される内なる自我を(偽我を)ひとつずつ丁寧に、
自己観察していく、という
この地道なワークの中にこそ
「自己脱落」
「高次な自己喪失」
「高次な意味の・自己を忘れること」
「身心脱落」
が起こり始め
マインドの自我が、自ずから離れる(脱落する)ことにより
今まで意識を覆っていたその自我の覆いが、マインドの覆いが徐々に離れることが始まり
自己意識を全く含まない
「真の私」達の意識の開花が
「I AM」として
「私は在る」として
始まるのだと思います
はじめから、そこにあるのですから