悟りエゴ
「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい、古い革袋に新しい葡萄酒を入れてはならない、そのようなことをすれば革袋は裂けてしまう」
上江洲義秀先生は帰りのフライトを待つ間に空港で私にそのように聖書を引用されて友達のような感覚で言われた
これは一体何を意味しているのか
今もって私には分からない
ただ私に言えることは
私の悟りエゴが、
今まで、この精神世界で知識を漁り集め、このマインドでもって「最高の真理」や「最高の真実」の知識を選別し、等級を付け
そしてランクを付け
それから
自分とその知識と一体化して、あたかもそれになったような錯覚に捕らわれ、
その結果みづからは尊大になり、
他の団体やグループや神やグルや教えにレッテルを貼っていると言うことなのではないだろうかとも思った
私の心の中で、この悟りのエゴが働き、いま知ることの出来る、多くの知識の中から神々やグルや宗教やグループ、そしてその中身を選別し、レッテルを貼り、この「悟りエゴ」が一番であると錯覚し、「神々の上で君臨している」この状態なのだろうか
この「悟りエゴ」は真実のものを味わったことも無いのに、その味を語り、その妙なる調べと、そのかぐわしき香りについて、又その美しさについて語ろうとしている
真実のものはハートから放射している愛の波動・調べ・香り・感動であると言われている
そしてその波動と状態は感謝であり・歓喜であり・平安であると言われている
にもかかわらず、それを体験していないのに
他の団体や、他の神々や、他のグループや、他の宗教や教えにレッテルを貼り、批判し、ランクを付けようとしている
この
選別し
等級を付け
ランクを付けて
最高のものと自分と一体化しようとする動きこそ
「悟りエゴ」なのかも知れない
そしてその悟りエゴは他の宗教や教えや神を非難したり、見下したりするようになるのではないか
上江洲義秀先生は私のこの状態、この悟りエゴを称して「古い革袋」と言われたのだろうか
私がこの1年間彼を見ていると
上江洲義秀先生は決して他の宗教や神や教えを非難しない
決して「これは正しい、これは正しくない」とジャッジしない
真理や真実の状態は一つであり
これに至る道はいくらでもあり
またその道をどのように強調しても結局、至る頂上である頂点は一つである、とそのように言われる
いかなる宗教や神や教えや思想であっても、共に手を携えて
一緒に、その頂上にたどり着き、その結果、本人がその果実を味わってもらいたい
と度々言われる、どの教えも神も兄弟なのだと
その頂上を目指す私が、他の登山ルートのグループを判断して、レベルを付けても、それは頂上に至る何の助けにならないのではないか
頂上は一つであるように、全ては「我は在ってあるもの」、この私も、あなたも、動物も、植物も、あらゆる物質もそして
全ての時間と空間も、この宇宙もあの宇宙も
すべては一つの「I AM THAT I AM」で在る
そのように
彼はその中から語る
彼が話すのは考えや、思うや信じるではないのではない、彼はそれなのだ、そこから語っている
これは大変なことだ・と私にはそう思われる
彼はその果実を味わい、そして私達にもその果実を味わうように勧めている
その果実を味わい食するのを邪魔しているがその悟りエゴであるのだろう
その果実を味わうのはやってくるのだろう
その時期がくれば
そしてそのときが至れば私にとってその果実が熟し、そして口にすることが出来るのだろう
そして味わったとき
この現象界の全てが祝福であり、感謝であり、恩寵であったことが分かるのだと思う
本来は一つである兄弟を
上江洲義秀先生が良く言われる
「わたしであるあなた」と
にもかかわらず、これを判断し、等級を付け、ジャッジすることは
これこそマインドの働きであると思われる
同じように
究極は一つである神やグルや宗教やグループを
判断し、ラベルを付け、ジャッジすることこそマインドの働きに陥り
「悟りエゴ」に被われていることである
だから彼は
この古き革袋を捨てなさいと言われているのだろうか