全ては何も起きていない


正覚者達はいう

何も起きていない(この世界も、あの世界も、この宇宙も、あの宇宙も、この私も、あの私も)

生まれていないのだから死ぬこともない

死ぬことはない、何故なら生まれていないから

良くなることもないし、悪くなることもない、わたしは生まれてもいないし、生きてもいないから

この、ここに起きていることは映像であると、

根源が上演している映像であると、そこには誰もいないし、何も起きてはいない

根源しかいない

そして

内面で起きていることも映像であると

欲望も、その欲望が叶うことも、叶わぬ事もやってきている

願うことも、思うことも、信じることも、愛することも、悲しいことも、嬉しいことも、嬉しくないことも

そして

私という錯覚も、やってはきているものである、起きては去ることであると

悲しみも、恐怖も、イライラも、心配もやってきている、そして去る、

それは私とは全く関係なく来ては、去る

それはただ

思考され、感情され、記憶され、努力され、欲望され、願われ、行為される、行われる

しかしそれは全く私とは関係がない

この世界は映像に過ぎない、従ってこの世界を構成している私も映像であると正覚者はいう

私が思考し、行為していることも、ここで起きていていることに過ぎない、単に起こっているに過ぎない

私が思考し、思っている、感じている、行っているように、思っているだけだ、と

行為も、思考も、全ては

私のと、私がと、

信じ、思わされているだけで、実際は私とは全く関係がない


感覚に騙されている、知覚に騙されている

感覚があるので知覚され、その知覚が主体を生みだし、自分は身体だと思わされている

記憶があるので、その記憶が主体を生みだし、転生の主体をつくり出し、自分は転生しているだと騙されている

そして、いつかは成就する、覚醒すると思わされている、そのような私は実は存在していないのだ

そしてこの錯覚は続いていく

この世でも、あの世でも

あの世に移行しても、この方式は続いている、自分が存在していると思っている、自分はいると思っている

しかし、本当はこの自分はいない

自分というものは存在しないのだ

自分の内面に、意識があり、その意識というスクリーンに、ああだこうだ、という思考や感情や想念や記憶が投影されるのでそれを自分だと錯覚しているのだ

それは、その意識上に繰り広げられている、知覚されて、認識されて、体験されているものであり、

単なる映画に過ぎない、自分の内面に起こることは、全て自分ではない

知覚され、体験され、経験される頂上体験も神秘体験も全て私ではない

知覚され、記憶され、体験され、経験されるという錯覚システムが

この自分が存在しているという錯覚を創り出し維持しているのだ

このシステムは、ハート(真我)から頭脳に結びついているあるもので、それが頭脳をコントロールしている

とラマナ・マハリシは言っている

したがってラマナ・マハリシの言っていることは上記のこういう事ではないかと想像している


いずれにせよ

私たちは騙されている

自分が生きていると思わされている

自分が行為していると思わされている

自分が欲望していると思わされている

自分が願っていると思わされている

自分が健康であったり病気していると思わされている

自分が不幸や幸福になったと思わされている

自分が思考したり、思考しなかったりしていると思わされている

自分がいろんな感情を抱いていると思わされている

自分が記憶していると思わされている

自分が輪廻していると思わされている

しかし

その思わされている自分そのものが私ではない

私とは実際は存在していないもの


いくら多くの輪廻転生をしていても作られたもの
であって、「存在するもの」とは関係がない

その輪廻転生している実体は「存在するもの」ではない

このいま、これを書いている私も含めて、このような私及び私たちは存在していない

私は生まれていない、だから死ぬこともない

この人生や輪廻は私ではない、私が生きているのではない、これは「存在するもの」ではない

この私は映像に過ぎない

私は映像である

私は生きていない、今後も生きていない、生まれたことがないからである

「存在するもの」のみが在る



そのように正覚者はいわれる



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