人格 を抱きしめよう
上江洲義秀先生がいわくには現在転生してきている人たちの、この現在の地球に焦点を絞って転生してきたこと自体が、非常に転換点としての貴重な時であり、多くの人格達が(それこそ何十万人という)望んだ転生であり、久保栄治という(または○○○○という)この人格は、多くの何十万という人格の中からのたった一人の人格として、この肉体に転生できたのですと言っている
これは理解することが難しい表現でもある
また彼は「観照者である私」は幾多の転生をしてきた人格(これは久保栄治などという、ところの「過去世」の人格・ワサナ)を抱きしめてきたという、
その抱きしめられている幾多の何十万という人格・ワサナ達が、この現在の肉体に転生することを願っている中での、たった一人が今回の久保栄治という人格であるという
この久保栄治という肉体に新しく久保栄治という名前を付けられて、ある過去のワサナ・人格がこの肉体に入ってきたと言うことになる
この際、私達にとって理解することが難しくなるのは、今語られている言葉は何処の次元から、どこの私から話されているかを瞬時に判別する必要があるからだ、上江洲義秀先生の話す内容は、どの私について話しているか、それを知る必要があるのだ
@真我の私を
A観照者としての私を
B転生している本体である魂であり観照者の乗り物としての鏡の私を
Cその魂が作り出した人格である私(これが通常の名前と身体に自己同一化して自分と思っている自分である・ワサナである)を
D肉体(及びそれに付帯する精妙体)
E肉体を維持しているエネルギー体
上江洲義秀先生のその講話ではAの私がCの私を抱きしめ、今回の転生ではDEにCが入れるのは、大変に難しい事であったと言っている
と私は解釈している
ニサルガダッタ・マハラジではこれをどのようにいっているか
ニサルガダッタ・マハラジはこの点でこのように指摘する
質問:個人と観照者には何の関係があるでしょうか
「何の関係もない。
なぜならそれらはひとつだからだ。
分離してはいけない。
関係性を探そうとしてはいけない」
またニサルガダッタ・マハラジは相対的な見地から見た場合と限定して、
おそらく輪廻を引き起こしている根本的な欲望について述べている
「実際には、あなたはけっして生まれなかった。
そして決して死ぬこともないのだ。
だが今あなたは、存在すると、あるいは身体を持っていると想像し、何がこの状態もたらしたかと尋ねている。
この限定された幻想の中での答えはー記憶から生まれた欲望があなたを身体に引き寄せ、
それと一つだと考えさせるからだ。」
輪廻を引き起こしているその原動力は、数多くの人格が、その人格の記憶とその記憶が引き起こした、衝動や感情や思考が見ることの真我の光で昇華されない限りは、その人格達のエネルギーにより転生が
引き起こされてしまうと言うことなのか
だが事実は、そこには誰もいず、それを含む世界もない。
そこにあるのはただの精神状態、夢のような精神状態だけだ。
その実在性を疑うことでたやすく払いのけられる」
「あなたが生まれる前には個人はそこにはいなかったし、
あなたが死んだあとも、そこにはいないだろう。
自分では無い何かになろうと個人として奮闘する代わりに、
何故個人的な人生全体を後にして、目覚の状態を超えていかないのだろうか?、
それは個人(久保注:今までの個人ではなく永遠のパーソナリティーの意味)の消滅を意味するのではない。
ただ正しい視点から見ることを意味しているのだ」
「あなたの最初の仕事とは、あなたとあなたの周りにある悲しみを見ることだ。
そして次は解放への強烈な願望だ。
熱烈さの強烈さそのものがあなたを導くだろう。他の導きは必要ない」
個人という想念の凝縮物・ワサナ・自我(私)には次のように言っている
「欲望を持ち、恐れ苦しむのはあなたではなく、
環境と影響によってあなたの身体に築かれた個人なのだ。
あなたは個人ではない」
「あなたの誕生以前の状態は、またあなたの死後の状態なのだ。
もしあなたが覚えているとすればだが、それはただマインドの波長を合わせる問題なのだ」
「私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。
私は泣いて生まれてきた、私は笑って死ぬだろう」
「誕生、人生、死の観照者は同一だ。それは愛と苦痛の観照者なのだ。
なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、
私達はそれを愛しているからだ。」