■気づき(見ること)の段階へ・それは起こる

2006.05.21友人のOさんと八ヶ岳付近のペンションで話をした。
そのときの彼から直接聞いたところによれば、
2003年の6月、カルキセンターでの講話の時、『自分を「見ている」とき見ている人はいません』、という講話を聞いている最中に、彼は自分の心をみたら、本当にその彼の心の中に、見ている・気づいている人がいない!!………….

どこを探しても見る人・観察者、経験者、体験者がいない!!!……、という。

「見るものは見れるもの」の非分離状態の直前の状態の体験をしたそうである。

そしてそれの状態を見たとき、強烈な歓喜の渦が押し寄せてきたそうである。
                                          
これは素晴らしい恩寵である。

実はその前に話があるのだが、カルキセンターで日本からの誰かがダサージに質問をしたそうである、「気づくにはどうしたらいいのですか」と、その答えが「意識レベルが、その気づきになれば気づくことが出来ます」という主旨のことを話されたらしい。 
これには、納得である、真に見るためには自分の意識レベルが、その見ることの出来るレベルになる必要があることは自明である、要は自分自身のレベルの問題なのだ                                    
まさしく,クリシュナムルティーのいう 「見ているとき、見ている主体はいない、気づいているとき、気づきの主体いない、空っぽである。見ている人、気づいている人はいない、ただ気づきと見ることだけがある」が彼の中に起こっていたのだった.。
祝福の喜びと歓喜を伴って、それの状態は歓喜そのものであることを、友人のOさんは証明している。                                                           
クリシュナムルティーの「ただあるがままをあるがままに見なさい、ただし、見るものなしで」がここに実証されている。                                                             
見られるとき、観察されるとき、体験されるとき、それが真実の見ること、観察すること、体験すること、であるとき、そこには大いなる歓喜と法悦を伴って、見られる、観察される、体験される。
見るもの無く、観察するもの無く、体験するもの無く。                                    
私がいない!!、見る主体無く、体験する主体無く、観察する主体無く、その主体こそマインドの作り出した幻想であり、マインドそのものであることだろう。                                     
なんと素晴らしいことだろう!!            
これは重要である。歓喜である。法悦である。       
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