未知なるものと既知なるもの
既知なるものは未知なるものに成れるだろうか
その既知なるものは未知なるものとなることができるのだろうか
既知なるものが進化して未知なるものに到達するだろうか
既知なるものが未知なるものの領域に拡がるだろうか
既知なるものは未知なるものを知ることが出来るだろうか
何故そう思うのか
そう思っているのは誰か
そのように願っているのは誰か
もし既知なるものが拡がって未知なるものに触れるとしたら
もしくは、未知なるものが既知なるものになるとき、
それは既知なるものであって未知なるものではない
だから
既知なるものは未知なるものにならない
未知なるものは
既知なるものが終焉したとき、最初から既に在ったものである
若しくは
未知なるものは
既知なるものがいないとき、そこに在るものである
招きもしないのに、そこにやってくるものである
と、多くの覚者によって言われているではないか
未知なるものは
既知なるものの領域にはない
既知なるものとは幻想のマトリックスであり
知識、知ることの出来る領域である
また
既知なるものは、「知られるものと知ること」の分断、分裂にある状態、即ちマインドの次元である
記憶、知識の次元である
既知なるものがいくら拡大しても、未知なるものには触れられない、触れることが出来ない
未知なるものは、内と外を超えてここにやってくると言われるのである、
この意識の座に
「見るものは見られるものである」として、
「私は在る」として
従って
それを招き寄せたり
分析したり
知識で知ろうとしたり
理解しようとすることは
既知なるものであるマインドのささやき
自我(エゴ)の行動である
未知なるものが在るためには
既知なるものの正体を見極めることである
既知なるものは死ななければならない、
終焉しなければならない
既知なるものの正体とは「〜なる」事であり、
時間であり、
マインドであり
真の私ではない
未知なるものを、既知なるものであるマインドで知ろうとすること、
それは
追求心、探求心、分析的思考、神智学的スタンスなどなど
マインドの知識で、未知なるものを、システムとして知的に把握しようとすることである
理性や知性や思考や知識やマインドでは、「未知なるもの」であるものは決して理解できないし、到達できない
それは知るというこのマインドには把握できないし、この中にはない
もしそれが
これらの既知なるものであるところの、
理性や知性や思考や知識やマインドで捕まえる事が出来たなら、
即ち
知ることが出来て、伝達可能なことであるなら
それは未知なるものではない
風は手で捕まえられるであろうか、
捕まえたらそれは風であろうか
そして捕まえようとすること自体が、邪悪である自我の働きであり、傲慢であるのではないだろうか
その捉えようとしているのは誰か
それは誰なのか
言葉を使わないで
ただ見ようではないか
未知なるものは、未知なるものとして在るのであり
それは私たちが理解し、知ることの中にはない、記憶の中にはない
それは未知の中にある
それは
やってくる
風のように
やってくる
内側から
しかし、やってくることを願うことは自我(エゴ)の働きであり、
既知なるもの、「時間」の動きである
やってくることを願って、ドアーを開けて待つことも、自我(エゴ)の働きであり、
既知なるものの、間違った行動である
既知なるものが静まったとき
既知なるものが、既知なるものによって正見されて、
自ずと静まったとき
そして
既知なるものが何処にもいないとき
それは(未知なるもの)
最初からそこにあった
探していたから見つからなかったのであり
達成しようとしていたから、至らなかったのである
と、クリシュナムルティーはいう
求道心そのものが時間であるもの、「〜なる」ところの「自他の分離」が引き起こしているのであり
マインドの自作自演である
マインド自体が見る者と見られるものの分離なのだ
それが「〜なる」即ち、時間を使ってなろうとしている
「〜なる」ことは「在る」ことがあるためには拒絶されねばならない
覚者の方々にとっては
「〜なる」事、自体が幻影であり、虚偽であり「在る」があるところには存在しないと言われている
「在る」ときは、外部と内部の分離は消失し、時間は今の中に消失し
自と他の分離もなく、従って、対象としての世界も宇宙も自我(エゴ)もなく
ただ「在るもの」(I AM THAT I AM)のみが、そこに現存していると言われている
そう言うわけであるので
虚偽を虚偽とするためには
私達は自身である「〜なる」(becoming)を拒絶する
私は私自身であり、時間そのものである「〜なる」(becoming)を拒絶する
時間の過程を拒絶する
時間を拒否する
なぜなら
既に、私たちは「在る」(Bing)からである、
分離性であり、二元性であり、時間であり、マインドであり、この輪廻をしている記憶
この悲惨、この恐怖、この憎悪、この暴力、この悲しみ、この不安、この苦しみ
そして、
それ故に起こる心、それが引き起こしている心とは
永続性を求めること、安定を求めること、達成を求めること、良くなろうとすること、
神に至ろうとすること、信仰すること、探求すること、求道心、信じること信仰心など
これらは一見して、あたかも真の私である「存在」が引き起こしているように感じられるけど
実際は、全く逆である
時間であるものである、二元性というマインドが引き起こしているのであり、
これがそれを装っているのだ
私達はこの時間という「〜なる」と自己同一化してはならない
これこそ元凶なのだから
私達はこの時間である「達成」「成就」「神実現」「解脱」などという言葉や概念、観念に惑わされてはならない
これらを求めている者こそ時間であり自我(エゴ)そのものであるからである、
だからこそ、それらは
「達成」「成就」「神実現」「解脱」を求めているのだ
これらは自我(エゴ)の存続を願う、自我(エゴ)が起こしているのだ
求めていなくとも、それは今ここに既にあるのだ
「達成」「成就」「神実現」「解脱」は既にあるのだ、
未知なるものとして
「達成」「成就」「神実現」「解脱」は時間の過程ではない
それは達成されるのではなく
達成しようとしている自我(エゴ)であり私たちではないものの姿を直視する中に
その受動的凝視の「注意」のなかに
姿を現しているのだと
クリシュナムルティーは言う
私達はマインドという既知なるものの欲望の罠に陥り、動かされ
未知なるものであるその神秘を、宇宙の秘密を、
そして何より私達自身の内側を、内的宇宙や外的宇宙の仕組みを
既知なるものであるマインドで、〔理性で、知性で、記憶で、思考で、〕知ろうとしている
しかし
そうやって、その知ることができた未知なるものの知識や理解は本物ではない
知ることのできる知識は既知なるものであり、その枠内であり、幻影のマトリックスのみである
私が獲得した知識は全て偽物である、なぜならそれは知識だからだ
本物の知識・智慧は内部に既にあり、それは知識が止んだときにのみ顕現する
それは真の知識であり、獲得したり学ぶものではなく、私自身であるもの
それこそが真の知識である
未知なるものであるその理解は
それ自体が在るとき、又はそれ自体がやってくるとき
自ずと知られることである
それ自体が
自ずと理解していることであって
知識によって知ることは出来ない
知ろうとすることこそ間違った欲望から発生している
もし、それが言葉によって、知識によって、秘儀によって、儀式によって、することによって、伝えられるものであるなら
知ることが出来、伝達可能なものであるなら
それは未知なるものではない
既知なるものが、形を変えたものに過ぎない
伝達ができるものや、伝達できることは既知なるものであって、
それは自他の分離の二元性の枠内のみのことであり、
本来はこの二元性、分離性は錯覚という邪悪なものである
なぜならそれは、知るものと知ることの分離自体の上に成り立っていることであり
この分離が二元性という根本錯覚の上に成立している、事だからである
未知なるものを、既知なるものの領域に引きづり下ろそうとすることは邪悪である
既知なるものには出来ないのに、未知なるものを知ろうとすることは邪悪である
既知なるものが未知なるものになることは邪悪である
既知なるものが拡がって未知なるものに至ることを願うこと自体、意図すること自体、行うこと自体が邪悪である
既知なるものが拡がって未知なるものとなることは出来ないし、そういうことはない
知られざるものは知るものによっては把握できない
知るもの自体が知るものによって知られるとき、それは本来の邪悪さを露呈し、自覚される
自我(エゴ)の働きが純粋思考によって正見されるとき、それが暴露される
二元性は苦しみであり、悲しみであり、恐怖であり、不安であり、そしてそれは自我(エゴ)を生み出す
自他の分離は、錯覚であり、憎しみであり、暴力であり、戦いであり、邪悪であり、そしてそれは自我(エゴ)を生み出す
二元性、分離性は既知なるものの土台である
そして、その働きこそ
宇宙の神秘を、内部の神秘を、聖なるものを知識で知ろうとする欲望である
未知なるものを知識や言葉や概念で知ろうとする欲望そのものである
その欲望が不在なとき
既知なるものがいないとき、
そこには未知なるものが在る、
最初から在る
とクリシュナムルティーはいう