瞑想とは日常生活の芸術だ!!
以下はクリシュナムルティー「瞑想」からの抜粋です
「瞑想とは
あるがままにものをみることであり
それを超えていくことです」
「より広い、より深い超越的な体験を
たえずもとめていくのは
“あるがまま”の実際の現実から
逃避していく、ひとつの姿にすぎません
”あるがまま”の現実とは
わたしたち自身のことです
わたしたちの条件付けられた心のことです
心が
めざめていて
叡智があり
自由であるなら
いったいなぜ
”体験”というようなものを必要とするのでしょう
そうしてそれを得ようとするのでしょう
光は光です
それはもっと多くの光を
求めたりしません」
「ただしい生活とは
社会の道徳にしたがうことではありません
ねたみや貪欲さや権力の渇望などから
自由になることです
それらはすべては憎しみをうみだします
しかし意志の働きによって
それらから自由になれるのではありません
自分を知ることをとおして
それらに気づくことによって
自由になれるのです
自分が何をしているのかを気がつくことがなければ
瞑想は感覚の高揚をもたらすだけの
殆ど意味のないものになってしまいます」
「あなたが心を静かにさせることは出来ません
なぜなら
”あなた”こそが引き裂くものであり
”あなた”そのものが
かき乱され不安で混乱しているからです
しかし あなたが
静けさというものを理解し
混乱というものを理解するとき
哀しみというものを理解し
哀しみに終わりがあるかどうかを理解するとき
そして快楽を理解するとき・・・・
そうした理解のなかから
とほうもない静まった心が生まれてきます
静寂を追い求める必要はありません
あなたは
最初のところから始めなくてはいけません
最初の一歩が最後の一歩です
これが瞑想というものです」
「瞑想は
生の中で、もっとも偉大な芸術のひとつです
おそらく最高に偉大なものでしょう
それは他の誰かから学べるものではありません
それが、瞑想の美しさです
瞑想にはどんな技法もありません
それゆえ瞑想には権威者などいないのです
あなたが自分自身について知るとき
つまりあなたを見つめ
そのように歩き
どのように食べ
何を話しているかを見守り
お喋りや
憎しみや
嫉妬を
見つめ
あなた自身の中で
これら全てのことに
思考を差し挟むことなく気がついているとき
それは既に
瞑想になっています」
「瞑想がおこっているかどうかは
頭が完全に静まっているかどうかでわかります
そのとき頭は一切の活動をやめ
どんな体験も生まなくなります
しかしそれは
力づくで引き起こせるものではありません
力づくで頭を鎮めようとするその瞬間に
あなたは二つに分裂してしまうからです
「わたしは素晴らしい体験をしたい
だからなんとしても頭を鎮めなくては・・・」
このようなことを口にするひとは
決して頭を鎮めることはできません
しかしあなたが
思考のあらゆる動き−−−
つまりそれがどのように条件付けられ
なにを追い求め
なにを恐れ
何を楽しみにしているかということを
見守るようになると
頭が驚くほど静かになっていくことに
気づくでしょう
その静まりは
眠りではありません
途方もなく活発で
だからこそ静まっているのです
頭は発電機のように摩擦があると騒音を出しますが
完璧に動いているときは
殆ど音を立てず
静かになります」
「静けさは
空間のひろがりをともなって
おこります
静けさの無限のひろがり
それは
心の無限さにほかなりません
そのなかに
中心となるようなものは
なにも存在していません」
「瞑想とは
日常生活とは別の何かではありません
部屋の隅にいって
10分間瞑想をし
そこから出てきて肉屋に戻る
というようなものではありません
これは比喩として言っているのではなく
実際にそうなのです
瞑想は
もっとも重大なことのひとつです
あなたはそれを一日中出来ます
仕事場にいるときでも
家族と一緒にいるときでも
誰かに「愛しているよ」と言っているときでも
子ども達のことを考えているときでも・・・
しかしその一方で
あなたはひとびとに
兵士になり、人を殺し、愛国者になり、国旗に敬礼するようにと教えています
現代社会のこのような罠にはまるように人々を教育しています
それをことごとく見守り
あなたがそのなかで果たしている役割を理解すること
そのすべてが瞑想にふくまれます
このように瞑想しているとき
あなたはそのなかに
たとえようもない美しさを見いだすでしょう
そしてあなたは
どんな瞬間にも正しく行動するようになるはずです
たとえいっとき
正しく行動をしないことがあったとしても
問題ではありません
ふたたびそれを取り戻せばいいのです
くやんで時間を無駄にすることはありません
瞑想は生活の一部です
生活とはべつの何かではありません」
「瞑想とは
概念や固定観念が何一つ無い状態です
心が完全に自由になった状態です
そのような心にだけ
至福が訪れます
探し求められてもいないし
招きよせられてもいないのに・・・・
ひとたび至福が訪れると
喧噪や快楽や暴虐に満ちた世界に生きていようと
それらが心に触れることはありません
ひとたび至福が訪れると
葛藤はなくなります
ただし葛藤がないというだけで
完全に自由になっているというわけではありません
瞑想とは完全な自由のなかで
心がはたらくことです
至福が炸裂する中で
瞳は無垢になります
そのとき
愛は祝福になります
あなたがたは
はたしてわかっているでしょうか
あなたが全てに注意を払えば
完全な静けさがおとづれるのです
その注意の中には
どんな境界もありません
中心となるものもありません
気づいている”わたし”とか
注意をはらっている”わたし”のようなものはありません
この注意
この静けさ
それが瞑想の状態です」
「あなたが瞑想するために
わざわざ なんらかの心構えをし
瞑想のポーズをとるなら
それは 心にとって
ひとつの遊び道具になります
心のおもちゃになってしまいます
あなたが人生の混乱やみじめさから
自分を救い出す決心をするとしましょう
そうした決意にもとづく瞑想は
一種の想念の体験にはなりますが
瞑想ではありません
意識的な心であろうと
無意識的な心であろうと
瞑想の中では
心がひとかけらもはたらいてはならないのです
心が瞑想の広がりや美しさに気がつくことすら
あってはなりません
もしそうなるぐらいなら空想小説でも買いに行った方がましです
瞑想の完全な注意深さの中では
知るということも
認識するということも
何かが記憶に残ることもありません
時間と思考は
すっかりなくなってしまいます
というのも時間と思考は
視野を限定する中心にあるものだからです
光明が訪れる瞬間に
思考は消えてなくなります
したがって
光明を体験しようと意識的に努力することも
それをおぼえておくことも
言葉の世界に属しているに過ぎません
ことばはすべて過去のものです
それは現実にあるものとけっして同じではありません
光明が訪れる瞬間は時間に属していません
その瞬間には
究極のものが現前しているのです
究極のものには
それを象徴できるものはなにひとつありません
それは人格を持ったものではありません・・・・・〈略)
瞑想とは
すでに知られているものによって
まだ汚されていない領域が
あるかどうかを
見つけ出すことです」