愛は行うものでなく在ること、発すること


愛とは与えるものではなく、その与える相手がいない状態、
その分かち合う相手がいない状態であるとき
そのとき
そこには愛しかないのだと思います

自分が存在していて、自分が愛していて、
そしてその愛の対象がいるとき、どうしてそこに愛があるでしょうか

その愛を与える自分とは一体何ものでしょうか、
それこそ愛ではない者、
愛に反する者である分離性、二元性ではないでしょうか


愛とは、その個別性の幻想たる相手とみえる個人存在に
一番必要なものを必要なときに必要なようにして与えるでしょう

それは、
ある時は物であるかも知れません、
ある時は叱咤激励かも知れません
、ある時は肉体的な病気を治すことかも知れません、し
かしその個人存在が乞食になってしまうようなことをきっとしないでしょう、行わないでしょう、

その個人存在が二元性の、分離性の幻影から抜け出すことこそ、一番の贈り物です、
夢から醒めること、
この物質界は夢であり、この幽界霊界という現象界は夢であることを
悟らすことが一番の贈り物であることはまちがいありません

ですので、
ここで重点であることは、
この個人が欲望から求めていることを成就させることは、
その個人を解放に導かない限り、本当の愛は行うことはしないでしょう、
その欲望を叶えること、
病気を治したり、経済的なことだったり、会社や家族や人間関係だったり、車だったり家だったり、等々
その欲望を叶えることがそのまま愛ではないことは確かなことです

愛は必ず叡智をともないます、何故なら叡智こそ愛だからです
愛が非二元性であり「見るものは見られるものである」そのものだからです
それは与えるものではありません
愛は「在る」そのものだとおもいます

愛は在るのであり、
何かをすることではありません
愛はするという感覚無しに行われます

愛はするのではなく、何をしても、何を行っても、それは与えているのです、
与え尽くしているのです、
与えることが非分離性の最大の特徴であり、
それが「見るものは見られるものである」の最大の特徴でもあります

ですから神は愛であるというではありませんか

それに対して
私達が愛しようとするとき
そこにそっと忍び寄るものがあります、
その忍び寄るものが愛を壊すのです、
その忍び寄るものとは相手が在るという幻影です、
自分が存在するという幻影です、
このときその愛は必ず動機と目的とその見返りを求めるのです
、それは愛では在りません、
商売です
だからマインドです、それこそマインドの本性です

商取引です、
それは神では在りません、
真の神は与えるだけです、何故なら与える自分がいないし相手も存在しない
愛という状態だけであるからです

そこは限りない喜びなのです、
それは歓喜であり
法悦なのです、
与えるとか与えられるとか言う感覚のない、
愛するとか愛されるとか言う事も存在しない、
一体の世界なのです
それこそ、その状態が「見るものは見られるものである」の状態なのです、
これこそ愛そのものの状態であり
そのとき
その存在から限りない愛が炎となって燃えさかるのです、世界と地球を包みます

その愛の状態こそ
内側にこの地球があり、家族があり、社会があり、世界があるのです、
だからこの「見るものは見られるものである」の状態であることが、そのまま最高の愛であり、愛を与えるのです

これが愛すると言うことです

ただ黙っていて、何をしなくても、その状態が、そのまま燃えているのです、
愛が燃えています、
愛が伝わっています、
愛が炎となって伝わっていきます、
その状態こそ愛が人々に最高の喜びであり幸せであるものを与えます
それが愛です、真我は愛です、これが覚醒していくのです

ですから真我の覚醒が
最大の愛であり、家族と地域と会社と社会と世界と地球と宇宙への与え物であるのです


愛とはむやみやたらにその個人的存在の偽我の求めるままに、欲望を叶えることでは在りません、
それは商売です、
その事実は商取引であり愛では全くありません、
何かがその与える相手から欲しいから、その相手の願望を叶えたりするのです、

虫歯の子供が欲しいからと行って、むやみにチョコレートを与えますか、
それを叶えてあげることで、あとで虫歯がかえって悪化して痛くなったりするのが親なら分かるはずです、
ですから、
その人が望むものをそのまま叶えることは神が行うことではありません、
真我は与えます、無条件に愛を与えます、
愛がその本性であり、愛がその実体だからです、
何故なら真我とは「見るものは見られるものである」であり、
自他の分離が無く、あなたとは私であり、私は世界であるからです

それに反して
自我であるマインドは相手が在ると錯覚しています、自分も在ると錯覚しています、
そこで愛を行おうとするのです、
存在そのものが愛であるのではなく愛を実践し、与えようとするのです。
しかしその愛は愛では在りません取引なのです
、ビジネスなのです
この精神世界にもしこのビジネスの概念が入るときそれは愛とは正反対の物が入ってきたのです、
真我はビジネスでは在りません、
二元性と分離性であるマインドがビジネスという概念を導入して貨幣経済が始まったのです、

ですから真我は取引を行いません、相手がいないのです

私が何かを与えるとき、そこに与える私が居る限り、
それはビジネスであり愛ではありません

私が相手の欲望を叶えるとき、相手が私自身であり、
いま一番どうすれば真我の覚醒に導くのかの叡智が存在しないときそれは愛では在りません

私が愛していると錯覚して、何かを与えるとき、それは相手を縛ります、
相手を解放に導きません、それは愛ではありません


愛は在ることです、何かをすることでは在りません、


「在る」とき、そのときそのままで愛は行為であり、贈り物なのです

愛は自分が行うことではありません、自分も他人もいないのです

愛は自然に起こります、何故なら真我は愛そのものだからです、

真我は愛の炎なのです

と私には思えます






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