映画はスクリーンがあるので上映できる
(マインドは「気づき」があるので有ることが出来る)
映画がスクリーン上に上映ができるのは
そのスクリーンがあるからではないのか
もしスクリーンが無かったら映画は上映できないことだろう
また、その映画が上映できるのはスクリーンに映し出す「光源」が有るからこそ、ではないか
その光源がスクリーンに映し出さなかったら
そもそも映画は成り立たない。
この現象界の人生という映画、
輪廻転生という映画は上映できない、とそう思う。
登場人物である主役という「魂?」
最初から最後まで、ずっと映画に出演している、私達の輪廻転生している「仮の主体」も
そしてその主役を支えている脇役、悪玉、善玉
準主役達という私達が作り出した過去世の人格も、ワサナ達も
この映画の登場人物だ
しかし、この現象界という映画館の館内にパッと光がともされて、
館内が昼間のように明るくなったとしたら
その映画は終焉する
その上映は終演する
それが真我の覚醒だと思う
それが真我の光だと思う
全ては映画だった、
全ては幻だった
私は「私という全体」であった。
館内の明かりが灯され、昼間のようになったとき、そこにあるのはスクリーンと映写機だけだ
館内を照らす明かりが輝くとき
映画館に、現象界を照らす真我という光が灯されたとき、
映画は終了することだろう。
映画は夢だったことが判明する。
けれども、その映画を成り立たせていた投射機の光源もおなじ光だったのだ
マインドという映画の内容を、
この輪廻転生している偽我が主演している映画の中身であるマインドを成立させていたのは同じ光であった
と、私には思える
スクリーンはこの映画であるマインドという意識を成り立たせている「気づき」の意識ではないだろうか
「気づき」というスクリーンが在るからこそマインドという意識が成り立っているのではないだろうか
勿論このマインドは幾重にも分かれていて
この肉体の頭脳を経由して意識されているマインドこそ
私達の昼間の活動している意識であり、睡眠中の無意識と夢である
しかし睡眠中の夢というものは、このマインド意識の潜在している部分が表面化されたものであるけど
睡眠中の全く夢を見ていない熟睡する無意識も
この睡眠の無意識も、夢で顕在化する潜在意識も、そして日中の意識も
これらを支えているもの
このマインドという意識状態を支えているもの、があればこそ有ることが出来るのではないだろうか
それこそ私達にとっては意識できない、スクリーン自体、「気づき」自体ではないだろうか
私達のこの映画の出演者であるところの、
主役が主演できるのも、脇役が出演できるのも、エキストラ達も、悪役も出演できるのも
このスクリーンという「本当の主体」である観照者が存在すればこそである
と私には、そう思える。
この「意識の座」というスクリーンがあるからである。
そもそも、このスクリーンという映し出す場・「意識の座」が存在しなければ、
映画という人生はあり得ない、
主役という輪廻転生を続ける偽の主体である「魂?」も、
脇役という私達のワサナ・人格達も、
私達が演ずる悪役も良い役も、
このスクリーンがあるからこそである、と、そのように思える。
けれども現状の私達は、この意識の中身は
いま映画の上演人物そのものに自己同一化してしまっている
その錯覚から目覚めることが出来ないでいる
私達は、いま映画の主人公として考え、感じ、味わい、体験し、経験している
また
それはこの私という意識は
このマインドである分離性、二元性、肉体意識、自我意識そのものであり、
従ってこの現在のマインドとはこの映画の主人公の意識の中身そのものでもあるから
その映画の主人公としてしか、
知覚し、思考し、体験し、思うこと、することは出来ない。
この映画の主人公としてしか、
見ることも、聞くことも、さわることも、味わうことも、嗅ぐことも、
そして感情も、考えることも、記憶自身も
それしかできない。
私達はこの映画の主人公そのものになりきってしまっていている
これは映画であり、私達は映画を見ているに過ぎないということが自覚することができない
認識できない、知覚できない、夢から醒めることが出来ない。
夢から醒めるためには、意識が拡大して本当に覚醒しなくてはならない
私は偽我ではない、私は肉体ではない、私は感情ではない、私は思考ではないと
目覚めるためには、「目覚め」が起きなければならない
やってこなけらばならない
私はこれらの偽我というマインドではなく
「私」は非分離性、非二元性である真我であると
「目覚め」がやって来なければならない・起きなければならない。
今現在のこのマインである私の認識も、体験も、知覚も、記憶も
この映画の主人公のものであって、それは真の私のものではない。
真の私はスクリーン(観照者)であり、その光源、そのひかり(真我)そのものであるのだ
とそう言われているではないか
現在の私達はこの
マインドである自分の肉体を、知覚を、記憶を、体験を、経験を、感情を、思考を自分自身と錯覚している
しかしこの重層性のあるマインドの意識を成立させているところの、根底・基盤そのものこそ
「気づき」と言われている意識である、スクリーンそのものである。
この「気づき」という意識であるところの「見るものは見られるものである」こそ
非分離性、非二元性の意識、即ち愛そのもの
全体性の意識
これは今の私達にとっては「未知なるもの」である。
しかし、この「未知なるもの」である、この「気づき」という意識が支えているからこそ
この座があるからこそ
既知なるものである私達の、この記憶、感情、思考、知覚、体験、経験というマインドが成り立っているのだ、とそう思われる。
勿論、このマインドにも
数多くの色々なるレベルがあり、
記憶と条件付けが作ったこの私という人格としてのマインドから
輪廻転生をしている記憶としてのマインドもあり
はたまた
意識界に存在する集合意識的なマインドもあることであるだろうし
人間以外のマインドも数多く存在するだろう、天使や数多くの人格的な神々として
しかしそれらは全て未知なるものではなく
既知なるものである
と、その様に思えてならない。
それらは、この「偽の主体」群であるこの「マインドの意識」にとって
認識可能な、知覚可能な、体験可能な領域の意識である
これらは全て映画の登場人物なのだ。
この既知なる領域は、如何に着飾り、美しく装っていても
これらはマインドであり、
見るものと見られるものという二元性が支配している夢の世界、現象界
偽の主体とその対象の有る世界
これが意識界であり
幾重にも重なって有る天使と数多くの人格的神々の世界である。
この意識領域は、この分離性のマインドで認識可能な既知なる領域であり、現象界であるとおもえる
私は、そう考える。
それは
未知なる「気づき」の意識ではない、全体性の意識ではない。
しかしこの現象界での
これらの登場人物が存在できるのは
スクリーンという意識がこの根底に存在しているからである。
そしてそのスクリーンを成立させているものこそ「私」であり
真の全体性・非分離性・非二元そのもの
「I IAM THAT I AM」である