意識面から考察した自我について
条件付けられている頭脳に於いて
「根源プログラム」が起こしている行為・思考・感情・欲望・〔肉体との同一視〕などの「マインド」の“記憶”として
また、その記憶からプログラム(行為・思考・感情・欲望など)に対して条件反応するものとしての自我の働きと、
その「記憶である自我」という実体への或る一つの考察、試案
①無思考・非対象 | 気づき 第三の目の領域 |
■思考・観念・概念ではない領域 ■分離意識ではない領域 ■非時間・非有限空間・非対象 |
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根源のプログラム |
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②第一想念 | ■根源的想念である第一想念である私 ■二元性・分離性、自分と世界が別にあるという感覚・錯覚 ■過去・現在・未来という時間の感覚即ち錯覚 ■見るものと見られるものの分離 ■進歩・進化・退歩の概念 |
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この第一想念は第三の目でしか透見出来ない そしてこの第一想念の根源が照見されたときマーヤは 存在していなかった事が悟られると言われている |
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無意識の領域 高等純粋思考領域 |
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③無意識の概念 | ■「私は肉体である」という概念を前提にしている思考や想念・無意識 ■②である第一想念が「この個体は私である」と錯覚し 肉体や感覚や思考や感情を「自分がこの身体である」、「この感覚は自分が感じている」 「私が考えている」「私が恐れている又は怒っている」と同一化してしまった状態 |
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純粋思考若しくは高等思考と呼ばれている極度に 思考が静止している気づきでなければ発見できない のではないか |
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特定の個体のプログラムが頭脳と結合した状態 |
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④第二想念 プログラムからやってくる思考・感情・欲望 |
現 在意識 マインドの領域 |
■この個体のプログラムと、その個体のカルマに応じてやってきている思考・感情・想念・欲望 (ただし、これはまだ自我によって認識される以前の段階では言語ではない) ■個体のプログラムに応じて頭脳に起こっている恐怖、暴力、イライラ、不安、自己関心、欲望、快楽、増上慢、優越感、劣等感、憎悪、努力など ■これらは個体のプログラムとして頭脳に起きていることで、個人のものではない、個人ではない状態であり、これを自分の感情や思考や想念と解釈するのは⑤の自我の反応からである |
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頭脳からアウトプットされたマインドが記憶され自我となる | |||
⑤自我意識・人格・ 個人 ④であるやってきた思考、感情の記憶が自我である |
★④以前の③②①は⑤の自我や人格ではコントロールできない ④はプログラムとしてその個体の頭脳にやってきていることで あり⑤はその④の結果であるので、④を変えようとすることより ⑤の範囲内で出来ること、即ちあるがままの受容と無為こそだ けが唯一の出来ることである。⑤の最大のプログラムは自分が 行為しており、マインドを変えることが出来ると錯覚することである |
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■条件付けられている頭脳にプログラムに従ってやってきた「分離した私」や感情や思考の記憶は頭脳内と外で記憶となり、その記憶が「未知なる私・魂」の回りに凝集し自我が形成される ■そして、その記憶でありプログラムに依ってコントロールされている自我が、同じく頭脳内にプログラムにしたがってやってくる思考や感情や欲望や肉体や外部に対して反応を起こす ■この自我と言う記憶はやってくる恐怖などに対して反応するも、その動きはやってくるそれらの恐怖などの第二想念より0.5秒遅く反応し、肉体の行為は自我のしようとすることより早くプログラムによって行動し、思考や感情も自我の思考や感情よりも、プログラムである思考や感情の方が強く早いので、プログラムの思考や感情に必ず従ってしまう ■この第二想念の記憶である自我意識の特長とは ~私が行為していると思うこと ~自分が行為しているのだから自分はカルマを作り、運命を作っていると錯覚する ~自分が輪廻転生しているのだと思う事(輪廻は自我ではなく、プログラムが輪廻を繰り返している) (同じく高次の魂は輪廻を観照しているものであり、全ての輪廻に気づいている) ~しなくてはいけない、良くなろうなどとすること ~になろうとし、到達しようとし、その為の方法を求め、それに到る努力をすること ~に対して、判断し、分類し、批判し、進歩しようとすること ~に対して選択などできないのに、自分が選択していると思う事 ~マインドは常に動いており、静止し、本来のあるがままであることが出来ない 自我とは頭脳にやってきている第一想念とプログラムである第二想念に対しての「条件付けられた頭脳の記憶」と、その「記憶である同じく条件付けられた反応」に過ぎないのに、自分が行為している、また、自分が考えている、自分が欲している「自分が私」だと思っている、その記憶にしかすぎない自我の意識内容とは恐怖であり、不安であり、逃避であり、なろうとすることであり、悲しみであり、憎しみであり、暴力であり「観念に反応する観念」にすぎない ■転生しカルマを負っているものとは聖なる根源からのプログラムそれ自身であるものであり、それは自分が行為していると考え、単なるその結果である「記憶という自我」ではない、自我は行為に関わっておらず、行為していると思っているだけであり、行為もその継続であるカルマも聖なるマトリックスのプログラム自体であってそれは「自我という記憶」には関与していないけれども、「自分が行為していると錯覚している自我」もそのプログラムの一部として巻き込まれている。 |
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★⑤の自我とは頭脳内で起こったことの記憶であり、やってきたプログラム上の 思考や感情や欲望というものの一部でもある。それはマーヤが生み出している 現象界の映画というものの進行維持のための必須の出演者でありプログラムの結果である以上は (そのプログラムの結果である自我には)やってきているプログラムそのものの感情や出来 事や運命やカルマを変えることは出来ない。自我そのものが映像であり、映画の投 影であり、実際には自我は行為もしておらず、自由意志もなく、選択もなく、思 ってもおらず、欲してもおらず、考えてもおらない、ただ自分がしているという感覚とその錯覚 している記憶とその記憶としての思考が有るだけなのだ。映画の映像である出演者には映画のストー リーもカルマという物語も変更することは出来ないのだ、自我とは結果なのだから ★自我の全ては②である第一想念である時間と云う二元性が生みだし、支配 しており、自我は感覚と思考を自分のものと思い込む様にコントロールされ ているが自我の持つ思考や感情は行為に関わっていないのに 自我はこのマインドの領域内で良くなろう、いつかは神のようになれると錯覚する。 |
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⑥言語・知識・情報 教え・書籍・ |
■⑤の自我・人格の内容がこの記憶であり、これらの自我を構成する記憶の内容物が言語・知識・情報でありその全ては本当の知識である「智慧」とは逆の、自他の分離、知るものと知られるものの分割、主体と客体、認識と認識されるもの、観察者と観察されるものなどという分離と二元という根本の錯覚から成り立っており、そう言うことであるので、全ての知識は二元性と分離を含み、従って錯覚であり智慧ではない ■この無知というマインドに依る知識は 伝達することが出来、記憶される事が出来る、それは知識や書物や情報として、又対象として認識できるすべてであり、文化や文明の全てが、教育や教会や組織や秘密の組織で伝授されるもの全てがこれであり 宗教の教えや、真実の教えさえもこの知識という記憶に他ならず、伝達され、認識されるものは記憶でありマインドであり、沈黙による非思考の領域の「聖なる言葉・智慧」ではない、「ただ一つなるもの」それ自体ではない。時間と空間を超え、自と他の分離を超えたものではない。 ■体験者がいる体験、認識者がいる認識、そのような認識の対象と似而非主体がある限り、記憶・言葉・知識・認識というものは、何れも錯覚の領域のものでしかない |
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