一緒に怖れ苦しみ、共に痛むこと
共に一緒に恐れること、その怖れを味わうこと、味わい尽くすこと
私が痛んでいるなら、その痛みを一緒に味わうこと、味わい尽くすこと
自分が憎しんでいるなら、その憎しみを味わうことだ
これに対して
上江洲義秀先生をはじめとする、クリヤヨガの方々による至高なる実在に全てを全託する道がある
けれどもそれと似ているけれど間違った方法がある
思考と観念の操作で「私は既に愛に満ちている」「私は貴方と一体である」「私は全てである」と思い込む方法である
しかしこの観念や想念での領域内では、結局は自己欺瞞でしかない
薬物効果、思考投射、想念移植、霊的なドラッグや〇〇〇のパワーによる頭脳の一時的な条件付けの解除・改編では
魂という自我からの解放は起こらない、聖なる実在の恩寵があれば別であるけれど
通常では、一時的にそのような思い込みがあって「私は愛深くなった」という体験をしても、深部に深く根を這っている
自我からの解放はない
マインドが生き続けている限りはマインドによる自己欺瞞が続けられていく
若しくは更に古くからある方法がある
それが「聖者の模倣」という自己矛盾の道である、
聖者の状態をこのマインドである自我に強制し矯正しようとする方法である
だがこの良くなる道とは良きことを否定する道でもある
この道が憎悪と殺戮と暴力と戦争へと、この方法が導いてきたことは過去の宗教の歴史を見ても明らかである
それは自己憎悪、他者憎悪、自己欺瞞と自己矛盾に導き、聖者の対極の状態(良きことの反対)を強める葛藤の道である
「右を頬を打たれたら左の頬を差し出す」こと「上着をとるものには下着をも与える」こと
この神聖なる聖者の状態の出来事をこのあるがままの自分に強請し、聖なる規範として自分に実行させようとさせる方法だ
これは戒律の道であり、結局はその「良きこと」の対極を強めて、その「良きことではない」奴隷となっていくのである
このみちはうわべでは聖者の模範に従っているようでも、実際は内側ではその聖者の状態と正反対のものが沸騰している
だから実際には「良くなろうとすること」とは「良きこと」から遠ざかる方法なのだ
自己を理想や理念に向けて努力し、精進し、良きことを行おう、良くなろうとし、良くあろうとしても
結局はますますその「良いこと」から遠ざかる事でしかなかったのだ、
この今までの地球人類レベルに合わせたこのやり方「聖者の模倣」という理念・理想への道とは
その聖者達の「良きこと」を否定し、「良きこと」の対極へと引きづり込まれる方法であったことが判明している
戒律や理想状態を設定し、それを自分に強請し
自分に一定の規範や戒律を押しつける従来の宗教の方法は、その聖者である良きことを
否定してしまい、結局は遠ざかる方法でしかない