瞑想では松果体に集中すべきであるのか


瞑想は各人によって、非常に捉え方が異なるし、またそのレベルに於いて、その人の特性や傾向におい

ても、実際のやり方も異なっているし、その人の段階に於いても合っているという方法が異なっているので、

先覚者達も説明というものがその時々により、その時の相対する人によって非常に違う場合がある。

私達としては、それらの異なっている瞑想の説明を聞いて「矛盾している」などと思ったりしないようにしたいと

思う。

その表面上の字句の違いを乗り越えて、説かれている真義を捉えることは、とても難しいことと思う。

初心者においては、何かの対象を固定した場合の方がやりやすい事があるので、対象を松果体や

真我(本来は対象ではないので、対象である場合は自己の想念となってしまう)に留意することを

薦めることもあるが

本来は上江洲義秀先生が奨めるように、見ている主体、瞑想している主体、想念している、この主体

の中に入っていくことが、肝要なことではないだろうか。

先生方の言われるように主体(客体を伴っている似而非主体)の奥に真の主体があるので、

そこを入り口として瞑想することが近道なのかもしれない。


認識され知覚されている主体であり、認識し知覚している主体とは、始めはこの見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、

想像したり、経験したりしている自我(エゴ)のことであるけど、
(行為していると思っている自己、やってくる思考や感情に対して条件付けられた反応をしている自己)

この奥にラマナ・マハリシがいうところの第一想念の私があると言われている。
(この第一想念である私の本質は恐怖そのものであると言われている)

そして更に、その奥に、その第一想念が生じてきた、本当の私の根源・私が存在していると言われている。

そして、これが瞑想のスタートであると言われている。

ラマナ・マハリシは最高のレベルからこの第一の想念の根源である「真の私」への留意の注意点を指摘している。

瞑想で松果体に注意することへの素晴らしいアドヴァイスをラマナ・マハリシが説いているので紹介したい。

多くのその道程にある友人の瞑想の中には

「行為していない」、「行為は起きている」ことの自由が在り、喜びがあるという。

「何も起きていないこと」、「行為それ自体と行為していると思っている私がいない」ことの自由が在り、喜びがある

という。

そして、自我(エゴ)の私である「〜になる私」、「〜している私」、「〜である私」、「感覚し・知覚し・体験し・認識している

私」が存在していないことの

自由が在り、喜びがあるという。

「私が、そして誰もいない」とき、「私も誰も何もしておらず」、「何も起きていない」とき自由が在り、喜びがあり

沈黙があると言われている。

これがマインドが去った喜びであり沈黙であろうか

そのこちら側の沈黙が、あちら側の沈黙へと橋渡しをするのであろうか



瞑想というあちら側への道は二つあると言われている

一つはアートマビチャーラの無為の道、即ち「在る」の道、もう一つはクリヤヨガの拡散・救済の道

私個人の傾向としてはラマナ・マハリシ方の無為の道が好きであるけど、もう一つの道があることをも了解している

けれども両方とも瞑想はあくまで真の私への手段であると、私たちに教えておられる


以下は「あるがまま」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット社から)の抜粋である


「私はブラフマンである」(久保注:私はブラフマンであると言明すること)は単なる想念にすぎない。

誰がそれを言うのであろうか?

それ自体
(ブラフマン・真我)がそう言うわけではない。

それ
(ブラフマン・真我)がそれを言う必要が有るだろうか?

真の「私」(久保注:観照者)もそういうことは出来ない。

なぜなら、「私
」(久保注:観照者)はつねにブラフマンとして在るからである。

それを口に出して
(または瞑想で)言うことは単なる想念にすぎない。

それはだれの想念なのか?

全ての想念は偽りの「私」
(久保注:真我からの根本想念)、つまり「私」(久保注:真我からの第一想念)

という想念から立ち現れる。

考えることなしにとどまりなさい。

想念が有る限り恐怖もそこにあるだろう。
(久保注:第一想念=恐怖=私)


私と言う想念が起こると共に恐怖も起こる。


「私はブラフマンである」は、他の想念を払い除ける集中のための一つの助けである。

一つの想念だけが優勢なときにそれが誰の想念なのかを見極めなさい。

それは「私」
(久保注:真我からの第一想念)から起こった想念だと知られるであろう。

その「私」という想念はどこからやってきたのだろうか?

その中へと探り入りなさい。

するとその想念は消え去る。

そして至高の真我がそれ自身で輝き始めるだろう。

それから先は何の努力も必要ない。

一者である真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないであろう。

そこにはその実在性を疑う他者は存在せず、

それゆえ、「私はブラフマンである」
(久保注:我は神なりと言明したりすると言うこと)と繰り返す必要は

ないのである。


熟睡の中には分離がない、

つまり分離限定は
(久保注:自分は分離していて肉体だと思うこと、自と他は別々の存在だと思うこと、真我
ではないと思うこと又は観念として我は神なりと思うこと等の二元性)

心によって現れたのだ。

熟睡の中には心は存在していない
(久保注:心とは認識であり、自分は身体であり世界と分離していると思うこと)。

心は存在していなくとも真我は存在している。


自我(エゴ)を探り出すこと。

つまりその源
(久保注:つまりマインドの特徴である、瞑想する人と瞑想する対象を分離してみること。対象があること

思考が働いていること等を起こしている源)を探求することで、自我(エゴ)は消滅し、

後は真我だけが残る。
(久保注:恐怖を自分とは別のやってくる対象として見ているものが自我(エゴ)である)



真我探求とは、あなたが、いまだに真我実現されていないと考えさせる、その障害

(久保注:沈黙ではないもの・思考)を取り除き、それによって真我実現へと導くのである。

瞑想とは自分の本性
(久保注:I AM THAT I AM)から、決してそれることなく(久保注:分離の状態で、

想念が我は神なり等とおもうこと)、しかも自分が瞑想しているという感覚などないままに真我にとどまること

である。


瞑想は想念が遠ざけられるという消極的な効果しか持っていない。

われわれは真我を忘れて身体と心を真の自己だと想像してしまう、本来の姿であり至福が自然に現れ

出でる前に、それらが立ち去れねばならない。

もしあなたが、身体の中の一カ所
(久保注:松果体)に注意を固定させたとすれば、意識の座に関するいろ

んな意見も理論的なものとなってしまう。

あなたはあなた自身を主体あるいは見るものと見なし
(久保注:マインドの本性として見るものが現れたときには自動的に見られるもの・対象が現れてしまう)

あなたが注意を固定させた場所(久保注:松果体などは)は対象となる。

是では単なるパーヴァーナ(精神的イメージ)にすぎなくなってしまう。だがもし反対に、もし見る人自身

(久保注:非対象・無思考の純粋主体)

を見れば、あなたは融合しそれと一つになる。それがハートである。


誰もが「私は在る」ということに気がついている。

この自覚を脇にのけて、人は神を探し回る。

眉間に注意を集中させることが何の役に立つというのであろう?

神が眉間にいるということは全く愚かなことである。

このようなアドヴァイスの目的は精神集中を助けることにある。

どのセンターにあなたが集中しようと、それは問題ではない。

何故なら本当のハートはどのセンターにも、そして身体の外にさえも存在しているからである。

身体のどの部分にあなたが集中しようとも、あるいは外側のいかなる対象物に集中しようとも、

ハートはそこに在る。


感覚器官によって知覚された対象物は直接的知識(プラティヤクシャ)と呼ばれる。

だが、感覚器官の助けもなく、常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるだろうか?

感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえない。

自己の覚醒のみが直接的知識であって、それは全ての人に共通した体験である。

自分自身の真我を知るためにはいかなる助けも必要とされないからである。



あなたとは誰か?

そして運命や自由意志を持っていると考えるその人とは誰なのかを見いださねばならない。

あなたとは誰か?

そして何故あなたはこの限定された身体を得たのであろうか

乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、あなたの行為もあなた自身のものではなく、

神の行為なのである。

膨大な仕事を成し遂げたとしても、実際には彼は何もしていない。

それ故、彼の活動が心の平和と無為の道を妨げることはない。

何故なら全ての活動は彼の存在の中でのみ起こり、彼自身は何もしないという真理を知っているからだ。

それゆえ、彼は起こっている全ての活動の沈黙の目撃者としてとどまるのである。


質問者::どうすれば他の人たちを問題や困難から救うことが出来るでしょうか?

ラマナ・マハリシ:


この他者についての話は一体何だね−。

そこには一者しかいないのだ。

そこには私も、あなたも、彼も存在せず、ただ全てである一者の真我が在るだけである。

他者の問題が存在するとあなたが信じているのならば、真我の他に何かが在ると信じていることになる。

外的な活動によって他者を助けるよりも、全てがひとつであることを悟る方が最上の助けである。

心が破壊されたとき、他の欲望(たとえば性欲など)もまた破壊されるのである。

身体が通り抜ける全ての行動は、それが生まれたときに決定されているのである。

唯一あなたに与えられた自由は、心を内面へと向け、そこで活動を放棄することだけである。

実際ヨーガとは他でもない、真我あるいは真理があなたとは異なっているという考えを止めさせること

に過ぎない。

それは人々が長い間心に抱いてきた、自分は真我と異なっているという概念を消し去ることを目的

としている。

あなたとは異なった何かと合一すると言う意味での合一などあり得ない。

なぜなら、あなたは真我から離れたことなどなく、離れることなど出来ないからである。

心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。呼吸の制御をする必要はない。

あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。

全ての行為は自動的に起こるのだ。あなた自身を行為者と見なしてはならない。

真我は行為に関心を持っていない。真我は行為に関わらないことは明らかである。



あなたが自分を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。

だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。

真我を実現した人は、世界を彼自身と異なったものとしてみていないのである。



交わるべき他の人など存在しない。ただ真我だけが存在しているのである。


超能力は自我(エゴ)があるときだけ現れる。真我は自我(エゴ)を超えており、自我が廃止された後に実現される。

二つの種類のシディが存在する。その一つとは実現へ向けての障害となる。

マントラによって、

魔術的な効果を持った何かの薬によって、

厳しい苦行によって、

ある種のサマーディによって、

その力は獲得されると言われている、だが、そのような力は真我実現の助けにならない。

たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままにとどまるであろう

もう一つの種類とは
(久保注:ただしいものとは)

それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と知恵だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それは独りでに現れ、神から与えられたものだ。

それはその人の運命に従ってやってくる


質問:自由意志というものは存在するでしょうか

ラマナ・マハリシ:


誰の自由意志だろうか?行為者であるという感覚が有る限りは、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚

は存在するだろう。

だがもしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、

出来事の流れを導いてくれるだろう、ジニャーナによって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命を超えているからである

なんであれこの身体がすること、この身体が通り抜ける体験は、その身体が存在を顕したときに既に

決定されているのである

人が出来る唯一の自由とは努力をしてジニャーナを得ることである。

それが彼と身体との同一化を絶ちきる。

身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることの出来ない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の

活動の単なる目撃者となるかという選択の自由だけをもっているのである。













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