行為・どの私がそれについて話しているのか?
(どの私が行為について話しているのか?)
このホームページを読んでおられる方は、おそらくクリシュナムルティーやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジなどの
書籍を精読して、その影響を受けられておられる方が多いのではないかと思います。
けれども聖者達の本を読んで私達が注意しなければならないのは、彼らは、どの私から話しているのかを、私達が知る事であり
そして「彼らの本」を読んでいる当のこの私とは一体「どの段階の私」なのかを知る事だと思われます。
『「段階」を言うことこそが真実ではない、そもそもレベルや段階などないのであるから』と言える段階に達しているのなら
そのように言うことが出来ます。
けれども、それを聞いている私とは、その、それを言うことの出来る次元の私ではないのです。段階の或る次元の私なのです。
現実の次元を、現実の私とはどの私なのかを知る事がなければ、
結局のところ真実ではあるが、現在のパーソナリティーにとっては「概念でしかないこと」の中に閉じ込められたままと
なってしまいます。
聖者方の眼は真我の眼であり、その眼で見ており、そしてそのことを本の中で話しているのだ、ということを、まず始めに知る事
がないと、私達は混乱して、その観念から一歩も先に進めない状態となってしまいます。観念に閉じ込められてしまうのです。
その彼らが見ている「聖者の私の眼」と、「私達の次元の私の眼」とは、全くもって次元も、見ているその眼自体も違うのです。
聖者達の眼とは、全体なる私の目であり、全ての私の私であり、それは至聖なる眼であるにひきかえ
私達の眼とは、肉体と幽体と霊体の眼なのです、即ちこの私達の眼とは現在のパーソナリティーの眼であり、自我の眼です
この私達の眼とは魂の内奥の眼ではありません。
聖者達の本を読んで、私達がそのことを学んで「聖者の眼」と「自分の眼」を混同してしまうこと、思い込んでしまうこと・・
この事が一番顕著に表れるのが「行為」という事だと思われます。
聖人や賢者の私とは、真我の私です。けれどこの私達の私とは、その聖者達とは全く違っている現在のパーソナリティーの私
であり、その眼であり、見ている目、なのでありそのもののいる次元が異なっています。
私達がそこに到ったのなら、それをそのように言うことが出来ます「成ることは在ることを否定する」・・・と
けれども私達の現在のパーソナリティーとはそれを言うほど成熟していないのです。真我と繋がっていないからです。
そこをハッキリと識別することが重要だと思われます。
私達が朝、目を覚まして、眠っている間に夢を見て、そのあと熟睡し、「ああ私は良く眠ったなあ」と言っている私、
眼が覚めたのは、「真実を見ることの出来る眼を持っている私」が目覚めたのではなくて、「見る事の出来ない眼を持った私」
の身体の眼が覚めたのだということです。
「見る事が出来ない眼」とは肉眼であり、幽体や霊体の眼です。
この現象界しか見れないこの目を持っている私、その眼そのものである私とは自我でもある現在のパーソナリティーであり、
このホームページを書いているわたしであり、読んでいるあなたです。
このことを私が感じるのは、私自身が40年以上もクリシュナムルティーを学んでいて、そこを間違ってしまっているからなのです。
ですので、そのことを特にハッキリとしなければ、多くの方が混乱するのだと思われます
日本中でラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジやラッメッシの本を読んで「自分は行為していないのだ」と自我がそう思い
込んでしまって錯覚しているのが数多く見受けられます
ラマナ・マハリシなどの本を読んでいる人が、ラマナ・マハリシに成りきって「私は行為していないのだ、
行為は起きているのだ」と言っていますが、それを言うことは嘘になります
極端な場合は、その観念が浸透して脳内麻薬が発生して、それを模擬体験したとしても、それは嘘です
それは自己欺瞞です。
狂信的な信者となり、トランス状態になってその次元の私であるような体験をしても、それは肉体や諸身体の脳の体験
に過ぎません。現在のパーソナリティーという諸身体が魂の内奥に繋がったわけではないのです。
脳が変性しても、魂の内部から出ている各身体への通路である各次元のチャクラが統合されていない限り、それは魂の内奥と
繋がってはいません。肉体脳やエーテル脳を弄くってもチャクラは魂の内奥からのものであるので操作ができないのです
各体の各チャクラが整わない限り現在のパーソナリティーは高次の私と繋がることはありません
そしてそのチャクラを塞いでいるのは現在のパーソナリティーの方なのです。
ラマナ・マハリシが「行為は起きている」と言うことは、彼は真我であるのでそれは真実です、がしかし私達は未だ真我と
繋がっていないのでそれを言うことは嘘をついていることとなってしまうのです。
「私は行為していない」と言っているのはラマナ・マハリシのいる次元なのです。
ラマナ・マハリシのいる次元の私は、この朝ベッドから眼が覚めたと、言っている私ではありません。
ラマナ・マハリシの私は真我の私であり常に見ているのです。眠ることはありません。
ラマナ・マハリシの肉体は眠るでしょうけど、ラマナ・マハリシは目覚めたので意識は覚醒しているわけですから最早眠らな
いのです
さてその行為に関しては、どのように考えたらいいのでしょうか?
その行為についてをどの私が話しているのか、
これが問題なのです
そして現在の私とは、いまのところは、どの段階の私なのかを知る事が非常に大切です
聖者方の彼らは「彼らである真我の私」が話しています。その「彼らの私」とは朝ベッドから「良く眠ったなあ・・」と言って
眼が覚めた私なのではありません。
聖者方の私とは、常に眼が覚めている私であり、決して眠ったりしない「眼」である真の私なのです。
それは魂の眼であり、魂の内奥の真の私の目です。
眠っているのは、朝にベッドから目がさめた肉体の私であり、この肉体の眼であり、肉体のDNAの私なのです。
ですので彼らに於いては、その既に覚醒している「眠ることのない眼」である真の私が
魂の内奥の私が、現在のパーソナリティーと繋がっている状態で「私は行為していない」と言っているのです。
残念なことに、私達の現状ではその魂と繋がった状態ではないので、肉体や幽体や霊体の眼で内部も外部も見て
判断しており。
従ってこの内部と外部を見ているのは、分離している肉体の私、幽体や霊体の私なのです。
だからこそ眠るのであり、
それゆえに内部と外部を分割して、分離してみている訳なのです。
それは、この現在のパーソナリティーの目とは肉体を含めた精妙な諸身体の眼であり、意識そのものの眼ではないからです。
アドヴァイタの最高の大聖者であるシャンカラは、「私は行為していない」と神我として話しています。
被限定アドヴァイタの大聖者のラーマクリシュナも「行為しているのは根源であり神です」と真我として話しています。
近世のアドヴァイタでありラマナ・マハリシは「行為は起きている、根源によって起こっている映像である」と真我として
話しています。
叡智の覚者であるクリシュナムルティーは、行為を逆の立場から、「私達人間はDNAからの条件反射の行動はしているが
観念を含まない真実の行為はしていない」と魂の内奥の真我から話しています。
それでは現在の私、この「諸身体の意識状態の私」とは彼ら同じ事を言明することができる真我の意識なのでしょうか?
夜、熟睡したと言って、朝ベッドから眼を覚ましたこの意識レベルの私とは肉体の私であり
夢を見ていたのは幽体や霊体の私であり、その私とは死後に幽界や霊界に行く輪廻している私です。
熟睡時に於ける高次元界での体験を思い出せないのは、その肉体や幽体や霊体の私であり
その熟睡を見ているのが魂の内奥の私である以上は
このホームページを書いている私とは現在のパーソナリティーという肉体や幽体や霊体である諸身体の私の意識であり
魂と繋がっている私ではありません。従って「見る事が出来ていない眼」の私であり
その私とは「真の私と繋がることの出来る可能性のある私」なのです。
この限定されている自我としての現在のパーソナリティーが「私は行為していない」、「行為は起こっている」と
あたかも、この私が真我の眼として、真我自身として、それを言明したりする事は虚偽であり嘘をついていることとなります。
真我としては真実でも、自我としてはそれをいうことは嘘をつくこととなるのです。
私達、現在のパーソナリティーである私にとっては、では何が必要なのでしょうか?
それは魂の内奥の私と繋がることです
魂の内奥の真我と繋がり、真我として「行為は起きている」「私は行為していない」と、嘘偽りなく言えることが必要です。
それ故にこそ、「行為していると思っており、自分が行為していると実感している私」が、その行為していないと言える真の私と
繋がる為には正しい行為が最も必須のことなのです。
エレブナでも言っているように現在のパーソナリティーにとっては、正しい想念、正しい感情、正しい行為が必須なのです。
何故なら私達である現在のパーソナリティーという諸身体には可能性があるのです。
魂の内奥の真の私と繋がることが出来る可能性があるからなのです。
それゆえ私達には仏陀の八正道が一番大切なることだと思われるのです
正しく見ること
正しく話すこと
正しく聞くこと
正しく思う事
正しく念ずること
正しく行う事
正しく瞑想すること
正しく生きること
そうして、常にわたしたちが魂の内奥の真の私へ注意を傾注することによって
それが、私達が「眼を持つこと」が可能になる道だと思われます
そしてそのときこそ
私達は真の私と繋がりを持ち始め、「私は行為していない」「行為は起きている」「瞑想は起こっている」と
嘘偽りなく言うことが出来るのだと思われます。