これで良いのだ、それでいいのだ、このままでいいのだ
静かに何もしないで安らごう
何もしないで受容しよう
クリシュナムルティーは言う
「なることは在ることの否定である」と
「良くなることは良きことの否定である」と
何かになろうとしない、
あるがままの完全なる受容の中に
沈黙は訪れ
そこに「見るものは見られるものである」であるもの
未知なるものがやってくる空間が生じるという
何かになること、
何かに至ろうとすること
瞑想し、真我を実現しようとすること
何かへ到達し、進化し、より深い意識状態を実現しようとすることは
マインドの動きであり
それはプログラムされている動きである、と
この現象界は第1想念というマインドの投影であるから
当然、誕生し、進化し、良くなっていき、次元が上昇し
そして
退化し、悪くなっていき、後退し、降下し、死滅する。
所謂
時間という範疇にあることだ。
肉体ではない「サイコノエティック体という記憶の塊である自我(エゴ)」である転生
している記憶である者
行為していると錯覚している限りは、カルマの報酬を受けねばならない者
生まれたと思っている者は、
死ぬことも避けられない。
しかし
生まれない者には誕生もなく、死もないと言われている。
なろうとすること
何かに至ろうとすることは邪悪であると言われている。
それは
在ること、実在を、愛を否定するからだ、とクリシュナムルティーは言う。
それは時間であり、自他の分離であり、進化という幻想だからだ、と。
この現象界の進化は幻想であると言われている、時間というマインドが作り出している世界だ。
実在は時間でもなく、自他の分離でもなく、思考・マインドや願望や記憶や感覚や知覚ではないと言わ
れている。
「在るもの実在」は既に在って、既に完全完璧であるといわれている。
良くなろう、良くしようとする動き、願い、そしてその為の実践・修行
自分が何かに、真我実現に至ろうとする想念こそ、
マインドの動きそのものである、
それは真理を否定する動きであると言われる。
従って
動かないこと、何もしないこと、努力しないこと。
何処にも行かないこと。
良くなろうとしないこと。
何にも至ろうとしないこと、成就しようとしないこと。
マインドの働きに自分を同一化して過去に思いを馳せたらり、その過去から未来を心配したりしないこと。
マインドの働きに自己同一化して、何かを考えたり、思ったり、何かを想像したり、何かを対象と分離
したものとして知覚したり、何かを願ったりしないこと。
動くこと、思うこと、思考すること、願うことがマインドの特徴であるから
時間ということがそのマインドの特徴であるから
当然に進化すること、進歩すること、良くなろうとする。
実現しようとすること、到達しようとすること、成就しようとすることがマインドの特徴である。
そして
そのマインドの働きを見て、それらから
逃避することも、受け入れることも、同一化することもマインドの働きである。
翻って、現在のこの人格である「私という記憶の塊」
自分が輪廻していると信じている私、
自分が行為していると錯覚している私
自分が考えていると思っている私
自分が知覚していると錯覚している私
自他が分離していて、自分は肉体だと思っている私
そのように思考しているものこそが
自我(エゴ)、即ち現在の「記憶の塊の久保栄治」である
この記憶の塊が、自分とは別に他人が有ると錯覚し、そして自分が行為していると勘違いするのだ。
そして挙げ句の果てに、この個体に起こっている思考や行為に対して反省し後悔したり、高
慢になったりするのだ。
このサイコノエティック体という自我(エゴ)の状態は
一体全体、具体的にはいかなる意識状態であるのか
いかなる波動状態であるのか
いかなる次元レベルで生きているのか
このマインドによって投影されている「記憶の私」とは
酷薄で愛情がまったく無く、自己関心で覆われ
上辺だけ調子が良いが真実の思いやりが無く、
謙遜の姿勢をとっていても人一倍、自惚れが強く高慢である、
表面上は愛を口にしていても他者に関しては愛情のかけらもなく、実は憎悪で溢れていること、
常に打算と計算でそのバランスを考えている狡猾な商売人であること
常に何かに至ろうとして、自己の欲望を抱いて神を漁っている乞食であること
思考では全く思うことも、想像することも、推測することも出来ないことを、無理に抽象思考を用い
て接近しようとしている泥棒であること
恐怖で溢れているのに愛を与えようとする偽善者であること
これが実際の久保栄治である
これが「サイコノエティック体という自我(エゴ)」の私
自分が思考し、行為していると錯覚しているこの個人・人格である。
このように考えて
私がそうであり、その通りであると観念するとき
私たちは何もすることがない。
何かをすると、思っていることが
自分が行為者だという錯覚に陥っていることを証明している。
だから自分は何もしていない、単なる結果である。
だからクリシュナムルティーは
あるがままをあるがままに見よ
と言われる
その
あるがままをあるがままに見ている中に、(分離せず見ているとき)
その
あるがままがあるがままで有るとき
何も動かないとき
良くなろうとしないとき
そこに
真実への道の扉が開かれ、そこを歩んでいくことが始まると言われる。
この暴力と、憎悪の私を、
イライラの不安と恐怖であり、愛のかけらもない私を
自己中毒の私を、あるがままに受け入れ
そのまま変えようとせず、その自己中毒の私こそが
実際のあるがままの私であるとき
ここからこの旅が始まると言われるのだ。
☆何も変わらない
−進化し、成長し、進歩しようとするものこそ、マインドの貪欲である
☆何にも至らない、何かに到達することはない
−到達し、究極に到ろうとしているものこそが究極ではないもの、存在ではないもの、在るもので
はないもの、である時間というマインドだ
☆何も体験しない
−神に至ろうとし、真我実現しようとしているものこそ(記憶というサイコノエティック体)が努力
をし、修行を重ねる邪悪な自我(エゴ)である、自分という錯覚である、個人という錯覚である
体験し経験することは意識界の領域内のことである、それは幻想の世界であるといわれる
☆何も得るものはなく、なにも利益になることはない
−愛を得よう、沈黙を得よう、神秘体験を得ようと、必死に瞑想し努力しているものこそが、
愛ではないもの、沈黙ではないもの、神秘ではないものである、幻想の自我(エゴ)というサイコ
ノエティック体(記憶体)である
☆自分は何も特別な者ではない、選ばれたものなどではない
−自分は特別だ、普通ではない。選ばれたものだ、と思う者こそが凡人の証である、それこそ全ての
マインドが個体に印象づけた普通のことだ
☆何にもならない、良くなることはない
−何かになろうとすること、何かに良くなろうとすることは貪欲なマインドの証である、マインドは
良くなることはない
☆何も認識しない、何も経験しない
−何かを認識し、知覚し、経験することは知覚感覚界、マインド界、意識界の幻覚の中でのみであり
マインドの範疇を超えることはない
☆何も達成することはない
−達成し、成就しようとする者は達成しているものではないもの即ち迷いだ
あるがままで良い
あるがままで美しい
あるがままで素晴らしい
あるがままが喜びだ
このままで良い
これで良いのだ
何も手を加えず、何に至ることも、何をすることもない、とそのように言われている
静かに安らいでいよう
真我に安らいでいなさい、とラマナ・マハリシは言われる
全てを受容し
この邪悪さを、このマインドを、この分離を受け入れよう
それで良いのだ
だから真我のうちに安らごう(とするだけが正しい思考だ、が現段階の久保栄治である)
何もしないこと
何も望まぬ事
何かを行うことや、何かになろうとすること、考えることは平安を生み出すことはない、と言われる
未来を考えたり、過去を想念することは平安を生み出すことはない、と言われる。
あるがままで在ること
あるがままの、そのままの醜悪さであること
あるがままの、そのままの愚鈍であること、迷妄であること
そのあるがまま何処にも行かないこと、今此処にあること
あるがままで何かにならないこと
あるがままの自分であるとき
そのときこそが
瞑想の出発点であり
沈黙を受け入れる準備が行われるときである、ともいわれる。
欲望と執着から自由な状態が解放をもたらす
想念そのものが欲望であり
記憶そのものが欲望であり
時間そのものが執着であると言われている
そして
想念そのもの、思考そのものが執着であり
欲望と執着がないとき想念はない
想念がないとき欲望と執着はない
と覚者は言われている
だから
私は
あるがままで在るのだ
あるがままに安らぐのだ
何処にも行かず
何かになろうとせずに
と、そのように覚者たちによって言われている。