真我という想念以外の想念は拒絶すること


ラマナ・マハリシはいう


真我という「想念」以外の如何なる想念も起こる事を許さずに

 ただひたすら真我のうちに留まっていることである。



私という想念が絶対に無いところ、それが真我である
(久保注:真我とは私と言う想念が無いところであるということか)

 それは沈黙と呼ばれている

 真我そのものが世界であり、真我そのものが私であり、真我そのものが神である、全てはシヴァ・

 真我である。



真我は五つの鞘の中にあるが、書物はその外にある、真我はその五つの鞘を捨て去っていくことで

 探求されるべきものであるため、それを書物の中に求めることは無駄なことである、何れ学んだことを

 全て忘れねばならないときがくるであろう。



覚醒の本性は、存在(サット)−意識(チット)−至福(ア−ナンダ)である。



見られるものである世界が取り除かれたとき「見るもの」である真我は実現されるであろう。


世界が実在であるという確信がなくならない限りは、実在である真我の実現は得られないであろう。


静寂にあることが洞察力と呼ばれている。

 静寂にあると言うことは真我の中に心を帰り着かせることである。

 過去現在未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。


探求とは、真我のなかに心を留めておくことである。

 瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在ー意識ー至福と思いなすこと
(久保注:確信することである


解脱とは束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である



そしてラマナ・マハリシは

更に以下で詳しく心という言葉を使用して、(ラマナは通常の世間で一般に言われている「現象的な魂」と殆ど同義語

で心という単語を使用して)、真我への道程を説明している


他の想念が(私は誰かという想念以外の想念)起こっても、それを追いかけることを止め、

 「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである


 どんなに多くの想念が起ころうとも構わない。

 想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探求すべきである。

 それに対して現れる答えは「私に」だろう。

 そこですぐに「私とは誰か?」と探求すれば、

 心は源(ハート)に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。


微細な心が脳や感覚器官を通って、外に出ると
(久保:心が頭脳と繋がって、脳内に映像が投影されるということか)、

 粗大な名前や形が現れる
(久保:肉体や他者や世界が分離した対象として現れるということか)。

 心がハートの中に留まっていれば(久保:心が頭脳ではなくて自身の根源であるハートに留まってということか)

 名前と形は消え去る。


 心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。


 心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。


 このように心がハートの中に留まっているとき、

 全ての想念の源である「私」
(久保:第一想念・根本無明ということか)は消え去り、

 永遠に存在する真我が輝き出す。

これに関係することをある神聖なる学派では気づきによって「私達の不定形のサイキック体や思考体などの「真我を取り囲んでいる鞘である複数の」ボディーがあるべきイデアのフォーム(例えばコスモスや生命の樹などのフォーム)へと再形成されなければ、私達はその結果である身体「心又は魂又は自我体といわれる成果の身体」を肉体(頭脳から)から切り離すことが出来ず、私達はそれを使って意識的な幽体離脱を行うことが出来ない」といわれております。
「体脱体験をしていると主張している人を観察してみると、その人は蛹から蝶への脱皮、即ち思考領域の段階から思考を超えている次元への移行への脱皮が為されておらず、彼らは彼らの潜在意識の領域の中に、彼らの潜在意識内のバーチャルな疑似空間内に飛び込んでおり、その人の潜在意識は汎宇宙的潜在意識の中にあり、潜在意識の中に飛び込むことによってそこで体験することが出来ますが、そのイデアのフォームが形成されていないために目撃をすることが出来ても出来事の最中にそこに参加することは出来ません、真の幽体離脱とは肉体を眠らせて「心又は魂又は自我体といわれる成果の身体」を使用するのです」と概略するとそのような意味のことを言われている


 人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである


では此処で言われているこの心(現象としての魂)とは何を指しているのであろうか

身体のなかに「私」として現れるのが心である。

 もし身体の中のどこに「私」という想念が最初に現れるのかを探求するなら、

 それはハートの中に現れることが発見されるだろう

 そこが心の起源となる場所である。

 絶えず「私」「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。

 心の中に現れる想念のなかで最初に現れるのは「私」という想念である。

 この想念が現れたあとにのみ、

 他の想念は現れる。



心も呼吸も、その源は同じである。想念とは実は心の本性である。

 「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。


 自我が生まれ出でる同じ場所から呼吸も生まれる。

 その為、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸も制御されれば心も静かになる

 呼吸は心の粗大な姿である。

 
(肉体の)死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている

 身体が死ぬと心は呼吸と共に出て行く

 それ故に呼吸を制御する修練は心を静める助けに過ぎず、

 心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない


 
真我への瞑想が(久保注:真我への想念、即ち無思考・非対象への想念)高まれば高まるほど、

 それらの想念は破壊されることだろう



心の中に物事の印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。

 想念が起こったなら、その時、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである

 
 (久保注:想念が破壊されるべきである)。

 もし真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ち込めば、それだけで想念は消滅するだろう。












































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