全ては観念の戯れだ
ニサルガダッタ・マハラジ
質問者 印刷されたメッセージは、紙とインクにすぎません。問題なのは文
章です。世界を要素と性質に分析することで、私たちはもっとも重
要なこと、その意味を見失ってしまいます。すべてを夢として格下
げしてしまうあなたの扱い方は、昆虫の見る夢と、詩人の見る夢と
の違いを無視することです。たとえすべてが夢だとしても、すべて
の夢が等しいわけではありません。
マハラジ:
夢は同じではない。
だが、夢見る人はひとりだ。
夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
私は光だ。
その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
私は夢の内側と外側だ。
頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知って
いるように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っ
ている。
私は私で在る。
夢の前も、夢の間も、夢の後も。
だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。
質問者:それはすべて想像の問題です。ある人は夢を見ていると想像し、あ
る人は見ていないと想像します。どちらも同じことではありません
か?
マハラジ:
同じとも、同じではないとも言える。
二つの夢の間にあるために、夢を見ていないというならば、それはもちろん、
夢の一部分だ。
もし夢を見ていないということが、実在のなかに揺るぎなく確立しているこ
とを意味するならば、それは夢とは何の関係もない。
その意味では、私はけっして夢は見なかったし、見ることはない。
質問者:もし夢と夢からの逃避がともに想像なら、それからの出口はどこに
あるのでしょうか?
マハラジ:
出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
質問者:すべてを夢として忘れ去るという訓練をはじめることが、私をどこ
に導くのでしょうか?
マハラジ:
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
質問者:夢は考えることによって起こるのでしょうか?
マハラジ:
すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
質問者:私の意志で、ではないのでしょうか?
マハラジ:
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。
ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より
ニサルガダッタ・マハラジは知覚されている世界は全てが神の意志で起こっている
と言われています
その知覚し知覚されている世界の全体性が神だと
彼はこの知覚し知覚されている観念から自由になった状態は純粋意識と呼ばれ
そこでは何も知覚されないと
私が思うに
それが真の瞑想だと思われます
瞑想とは、「私・自己感覚」が「すること」ではなくて、「起きること」だと思っています
それは未知である「今・此処・あるがまま」の次元の事柄であり
私達、思考次元の事柄ではないのだと
それは「私がしていると思っている」次元とは異なるのだと
従って
「自分」が瞑想をするのだという感覚・・
この自分という「自分は肉体に入って」いて「自分は他人とは別だ」という実感・・・・・
この自己感覚を感じている「私」・・・
その私が誰かの先生の指導で瞑想して、努力して真我を実現するのだという・・「わたし・私」
この「私」とは・・・この「私」という実感とは・・・・
この「私・自分」とは一体誰なのでしょうか?
この「私・自分」を実感している私とは誰でしょうか?
この「私・自分」というこの自己感覚は「自分」だとしてもこの「自己感覚」は誰が作ったものでしょうか?
この「私・自己感覚」は「私」が作ったのでしょうか?
それともこの他と分離した「自己感覚」が、与えられていることとしてただただ
起こっているのでしょうか?
この「自分」という、「他」と分離している自己感覚・・は、・・・私は
頭脳や思考体の記憶それ自体の感覚であり
記憶とは頭脳を経由した思考の感覚であり
思考とは根源によって起こっている壮大なる「マインドの現実」そのものだと思われます
この「夢の現実」は想像することすら全く不可能な超巨大なるマインド
によって引き起こされているのであって
「私・自己感覚」とはマインドの引き起こした一部分であり、マインドの結果であり
若しくはマインドそのものが、すなわちこの分離している「私・自己感覚」なのだと
畢竟すると
「自分」という、この「自分が行為している」んだと、そのように思考している記憶体とは
根源によって
現象界を維持するために
生み出された映像の一部分であり
思考によって生み出された記憶であり
その記憶が私なのだということになります
それでこの私・記憶が
「私が瞑想をしよう」と信じ込むようにプログラムされ
「私が行為している」と思わされ
「私が思考している」と思わされ
「これは自分の人生で、この私が魂であり神に戻るのだ」と信じ込むようにプログラムされている
根源によって、根源のための、根源による映像だと
その根源によるプログラムが頭脳を経由して投影されているだけで
何処にも瞑想をする私など存在しようはずがありません!と言われてます
何処にも他と分離して生きている個別的な私などいるはずがありません!
私とはスクリーンに映写されている映像です!
とそう言われていることであるので
瞑想とは、
実は私が瞑想をするのではなくて、その正反対に私によらずに
私をプログラムした根源によって惹き起こされている事であるのだと思います
瞑想をするのは私ではなくて、根源が瞑想をするのだと
真我の実現や瞑想によって神に到達しようとする・・・考えは
このマインドの夢という根本錯覚を維持するために
現象界を維持するために根源→マインドに依って使われている手段・思考ではないでしょうか
自称教師や真我覚醒団体や似非覚者が真我実現の為に手段やその方法や道を説き
人々を導き、集中させ、努力させ、瞑想をさせ、神実現の道を歩ませることは
実は夢の中に深く深く入っていくということ
夢から醒めたという、更に深い夢へと誘うことだと思われます
私達は眠っていると言うこと
これは
思考自身の実感であり
本当は夢はないのである・・とニサルガダッタ・マハラジはいいます
「夢から醒めようとすること」・・・このこと自体がこれが嘘です
「夢から醒めよう」言っているのは「気づき」ではなくて思考です、マインドです
「夢から醒めよう」としているは夢であるマインドです
「気づき」には夢はなく、既に夢から醒めているから夢もなく、夢から醒めることもないのです
「夢から醒めようとすること」これが
「夢を維持させる」為にマインドがしていることであり
マインドという私であり、根源が使っている夢です、プログラムです、結果ですと
何処かに向かわせ、何処かに到らなくてはならない等々
神に到らなくてはならない、真我実現しなければ・・と思わせて、瞑想させ努力させる事は
虚偽へと導くことだと、この嘘へと指導すること・・
それは「気づき」がしているのではなく
マインドがしている事のようです
到達すべき山頂というような所があるという事そのものが虚偽であり、嘘だと、
このように考える事がマインドの思考です
実際は行くべき所など何処にもなく、未知なる「いま此処」が全てであるというのに
この「気づき」ではない思考自らがこのように思い込み、自らに自己欺瞞してそう信じさせている
のです
何故、真我に向かって行かねばならないのでしょうか?真我は到着点なのでしょうか?
何処かに行きつくつくところが真の私なのでしょうか?
それとも真の私とは決して離れることのない「未知なるいまここ」なのでしょうか?
真の私は到達点ではなく「いまここ」出発点ではないでしょうか、
出発点と到着点を分離して思考することが思考の本性であり
目標や目的や理想や理念という時間を内在させている思考こそが「いまここあるがまま」からの
逃避ではないでしょうか?
何故、真我に到るために何かを為さねばならないのでしょうか?
何かをしなければ真の私に到達できないのでしょうか?
それとも、何かを為さなくても為しても、既に真の私はいまここに「在る」のではないでしょうか
実は誰も何も為していないことを理解している気づきが「真の行為」・無選択・あるがままなのではないでしょうか?
自分や他人が個別にいてそれぞれが行為をしていると思うことが思考なのではないでしょうか?
何故、瞑想し体験し、真我を実現しようとするのでしょうか?
瞑想や真我とは決して体験や、知覚や、経験の領域ではないことを本当に知る事が瞑想であり真我ではないでしょうか
それでは、
一体誰がそのように必死に努力し瞑想し、神と一体になろう思っているのでしょうか?
思っているのは「気づき」でしょうか?それとも「気づきではないもの」でしょうか?
それは思考ではないでしょうか
思っていること、願っていること自体がそれは思考であり、マインドであり
それは思っている願っていると言うことで「気づき」ではないものであることを証明しています
「思い、願い、欲し、知覚し、経験する者」それは根本的な「私」という分離したマインド
だとおもいます
「気づき」は思考しないで理解するからです、それは選択し、経験しないからです
「気づき」ではない思考が
根源によって生み出され、コントロールされプログラムされて
幾多の次元を経て
私と言う個別した実感を与えられ
その「私」という思考が肉体を自分だと信じたのはないでしょうか
自分は他と分離しているのだと信じ込んだのです
そして、その思考であり、その思考であるプログラムが作動して
真我を実現しよう!瞑想して良くなろう!神に到ろう!と藻掻くのですが
その神に到るべき「私」とは根源が作り出した「自己感覚」という仮想想念実体に思われます
行為は根源によって起こっている聖なること
そして
思考は根源によって起こっている聖なること
そして
自我・自己も根源によって、これらの映像を廻していくために作られた映像であり、聖なること
だと教えられております
神も悪魔も現象界を維持するために根源によって作られた、聖なることの部分だと
私と言う自己感覚・分離感は非二元・非分離である根源によって
生み出された、この壮大なる夢の一部分だと、
神が自我を使って演劇を演じているのだと
根源しかおらず、他と分離しているこの私・自己感覚は夢のなかの人物です
数百兆という指人形を使って、唯一の神が個人を演じているかのようです
このマインドの世界は、全てが根源の夢だと
ですので
一生懸命、努力して、瞑想して
真我実現し、神に到ろうとしているのは、神によって生み出され、DNAによってプログラムされ
演じられている自己であり、自我であり、現在のパーソナリティーなのです
この私・自我現在のパーソナリティーという私こそ神が使用している指人形だと
ですから
行為も
瞑想も
私と言う自己も、自我も
根源によってやってきて起きていることで
行為、体験、思考、運命、肉体、知覚とはこの私と言う実体である自我・自己と共に単に起きている
こと
夢の世界は根源である神のプログラムの結果であると言うことです
そしてこれを完全に領解し
私達は結果であり、自由もなく、自由意志もなく、行為もなく、思考もなく、それらは
まったくこの自我とは関係なく起きていること
現在のパーソナリティー・サイコノエティック体・自我もただただ起きていること・・を見たとき
そこにマインドを超えた
自由が在ることを
クリシュナムルティーは
「自由がないとき選択があり行為がある
自由である今には選択もなく、行為もない」
・・・とその根源次元の状態をその根源を更に超えた次元から
話されております
※此処で言う「気づき」とは思考やマインドという時間空間を超越している
意識で、「非思考」「非対象」「沈黙」「宇宙意識」などといわれている
またそれは思考やマインドの次元ではない、映画に例えればスクリーンの意識を指している
それに対して思考やマインドは記憶として、知覚、経験、理解、知識、情報、言語、認知、時間、空間
自己と他者の分離、主体と客体の分離、など根源によって使われている夢の非実在の世界を
維持し構成している媒体である