私が行為するのではなく、行為は起きる、だから在りなさい、在るのだから
これはニサルガダッタ・マハラジの言葉です
素晴らしいとは思いませんか
私たちの行為は起きているのだと言うことです
私が行為しているのではないというのです
行為は私達にやってきて起きる、事であるというのです
行為している者はいない
行為者はいないというのです、
それは此処で起きているのです、と、そのように言われます
また
私たちの内部に有ると思われている思考や感情、想念や記憶も
実は外部からやってくるものであり、
私たち自身ではなく、外部からやってくるマインドである
とそのように言われています
また私達自身である、行為者、観察者、思考者、
即ち輪廻転生している多くの身体、
私自身と思われている当の本体である自己・自己の実体もやってきたもの、
マインドによって創作された個人であり、
人格であり、それは「真の私」ではないと言われます
上江洲義秀先生流に言えばそれは偽我と云うことになります
ニサルガダッタ・マハラジが
いう「在りなさい」とは何か
「在るのだから、全力で在りなさい」とは
「わたしは在る」とは何か
「在る」わたしとは何か
ニサルガダッタ・マハラジは「在る」とは真実の「愛」「愛そのもの」だと云われます
それは「真の私」であり、「絶対なる神」そのものであり
全体であり、普遍であり、未知なるものであり、智慧であり
言葉や概念や思考では近づけないもの
現在の条件付けられた知覚では接近できないもの
「平安」「無限」「歓喜」「全体」などであると云われます
そこへ
「在り」なさい、と
あなたは「在る」!!
私は「在る」!!
「在りなさい」!!と
これは
「貴方は本当の愛そのものであるから、無限の愛を全てに注ぎなさい」とも言える、と思います
また
「貴方は既に真我そのものであるから、求めると云うことをやめて真我として在りなさい」とも云えます
また
この現象界の宇宙で起きていること、
起こっていることは
全て
自分の外部も内部も、全てやってきていること、起きていることであり、それはショーにすぎない
と言うことであり
この知覚し、認識し、生き、喜び、苦しみ、愛し、愛されている自分そのものが、
それらの自分、それ自体が「意識という座」に起こっているもの、
上映されているもの、
単なる映し出されている登場人物であり、
「私」と錯覚されているものであり
「私」ではない
と言うことだと思います
だからニサルガダッタ・マハラジは「私で在りなさい」と言います
輪廻転生している自分は映像に過ぎない、
この記憶も、
この今の人生も、
この記憶も、
この思考も、
この感情も、
この心配も、
この苦しみも、
この楽しみも
自分に外部からやってきているマインドであり
それらを集約している、この私そのものがやってきている映像であり
知覚し、意識されている私そのものが
外部からやってきて意識の座に起こっていることであり
投射され創られた錯覚であるに過ぎない、と
この偽我という自我(エゴ)・私は創られやってきたもの・創作映像である、と
この筋書きに書かれている
プログラムに従っての映像に過ぎない
いまこれを書いている自分自身
これをいま読んでいる貴方自身が
「意識の座」にやってきたものであるに映像に過ぎない、と
ニサルガダッタ・マハラジはいう
いまこれを書いている私はプログラム通りに上映されている映像だが、
真の私は、「今」ここに「在る」と
それは
今、これを読んでいる貴方自身も外部からの条件付けられた
プログラムで上映されている映像であるけど、
それと同時に、
本当の貴方は、「今」ここに「在る」と
なので
「今」「ここ」にいる私と貴方は、
勿論同じ一つの生命、一つの私、一つの愛、一つの智慧、一つの全体、
一つのからだであると思う
けれど、知覚の条件付けで
それが知覚できず
認識できないのだ
目が覚めていないので見えないのだ
であるので
真実は「私」は「貴方」であるのに
これを分離して思わされており
自分以外に外部があるとか、対象世界や、対象の宇宙があると錯覚させられている
その錯覚をもたらしているものが
行為者、観察者、思考者である「わたしという個人」、「人格」、
そして輪廻転生する実体を創作したのだ
そして、それが
内部と外部の分離という錯覚を生じさせ
この立体映像というホログラフを上映しているのだ
私は断じて、この立体映像のホログラフと同一化してはいけないのだ
なぜなら
この私は幻であり、元々、存在していないからだ
であるから、目を醒まさなければならない
この現在知覚され、体験され、生きているこの人格たる私は
単なる映像であり
存在しない
またこの創られた輪廻転生している私と
その私自身として、錯覚されている、ところの意識に
それはやってくるのだ
「意識の座」に、わ・た・しと錯覚されて
内部と外部の出来事、行為は
私がしているのではないと
それは
私ではない
それらは私ではない
いま
錯覚している創られた映像の私が
外部として投影された対象を見、そして映像の中で一生懸命いきているのだ
目が醒めずに
そして
出来事もこの「意識の座」にやってきているのに
それを、自分が行為していると錯覚し、藻掻き、努力しているのだ
ニサルガダッタ・マハラジは云う
行為するのではなく、行為は起きる、起きている
だから在りなさい、在るのだから
と
私はニサルガダッタ・マハラジに感謝しています
本当に
ありがとうございます