自分たちと一緒に悩み苦しみ味わおうではないか




ニサルガダッタ・マハラジは言う

「解放とは、決して個人が解放を得ることではなく

           個人という実体から解放されることなのだ」



「個人とは、あなたを監禁する殻でしかないのだ、

           殻を破りなさい」


「記憶と自己同一化の拘束を破りなさい

そうすれば殻はひとりでに破れるだろう

そこにはなんであれそれが知覚するものに実在性を与える中心がある

あなたが理解すべき事は、あなたは実在の源であり、あなたが実在を得るのではなくて

あなたが実在を与えるということだけだ

あなたは何の支持も確証も必要ないものだ

ものごとはそのまままだ

なぜならあなたがそれをそれとして受け入れるからだ

受け入れるのを止めなさい、そうすればそれは消え去る

なんであれあなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなたの前に現れる

それを欲望と恐れなしに見なさい

そうすればそれは実体を失う

快楽と苦痛は束の間のものだ

その為に行動を起こすよりも無視する方が単純でたやすいのだ

創造は意識の本性そのものなのだ

意識が現れを起こす原因なのだ

実在は意識を超えた彼方にあるのだ」




以下はその「殻」の独白です

悩み苦しみんでいる私を受け入れようではないか
悩み苦しんでいる私を抱きしめよう
悩み苦しんでいる私と一緒に悩み苦しもう
悩み苦しみから逃避しようとしている私を受け入れよう
悩み苦しみを避けて自分にとっての「良いこと」だけを求める私を受け入れよう
悩み苦しみを避けるために、努力し、瞑想し、祈ったり、占ったり、神にお願いして
   いる私を抱きしめよう、受け入れようではないか


悩み苦しみを悩み苦しみとは言わないで感謝しようではないか、
   見返りを求めて感謝するのではなく 
   してもらった〜だから感謝するのではなく
   ただただ感謝しようではないか、
   何が起こっても本当は有り難いからだ・・
   起こる事は起こるべくして起こるのだから、完全なのだ、と
   起こる事が例えば嫌なことでも、良い事でも、それは完全なのだ、と
   それこそが感謝なのだ、何が起こっても感謝なのだ、完全なのだ、と
   そのことをハッキリとは言えない自分を、そして、それを条件付きで言って
       いる自分を受け入れよう



目を持っておらず、なにも見えていない盲目のこの私を受け入れようではないか
哀しみにうちひしがれているこの私を受け入れ、抱きしめようではないか
狂気の、欲望の、どうしようもない自分を抱きしめよう
     狂気の、欲望の自分も、それを抱きしめている自分も自分なのだ同じ自我なのだ
恐怖に怯えているこの私を黙って受け入れよう、抱きしめよう
アンマのように私自身を1人ずつ、しっかり抱擁しよう
抱かれる私も抱いている私も同じ一つのこの私だ、この自我だ


痛くて苦しみにのたうち回っている私の、悩み抜いている私の   
   その苦しみと、悩みと、恐ろしさと不安を一緒に味わおうではないか
この抱きしめて一緒に苦しんでいる私、私を受け入れている私
この私には目がないのだ、

私には目がないのだ、そもそも目が着いていないのである
この私には見るべき目もなく、見ることも出来ない
この私には愛したくても愛が無い、そもそもが愛が無いのである、単なる結果だからだ
   単なる条件付けられた頭脳の結果であり、思考であり、その記憶だからだ
   この私とは見守る私、観照している私、鏡の私ではない、純粋の主体によって
   目撃されている私なのだ、この私とは思考なのだ

この私には利己心しか持っていない、愛が無いからだ
この私は求め続けている、何ものでもなく実に虚しいから、絶えず何かに成ろうとしている
この私は苦痛を避け、哀しみや恐怖から逃げようと、いつも避けようとしている
この私は必ず打算で動いている、分離している思考そのものだからだ
    絶えず動き回り決して沈黙していて静かで在ることがない
この私は演技の名人である、常に計算して、状況をうまく立ち回って自分の利益を
    追い求めている、仮面をつけている商売人なのだ

この私の中身とは恐れであり、不安であり、憎しみであり、悲しみである
    それは恐怖から逃げようとしている恐怖自体であり自我と呼ばれている

この私は神を知らないのに、神という名前を付けた自分の欲望を神だと自己欺瞞して    
    神を求めている、それも自分の利益のためにだけ・・
この私は失うことを恐れ、信用を失うことを恐れ、世間の体裁を気にしている
    起こる事を極度に恐れている、決してあるがままを受容せず
    あるがままをあるがままに受け入れない、避けようとしている
    自分にとって都合の良いことしか受け入れようとしない・・自我だからだ




だからこそ、この自我である私を私自身が抱きしめるのだ
    非難せず、評価せず、ただただ黙ってこの自分を受け入れようではないか
この自我であり狂って錯乱している私を受け入れようではないか


受け入れる私もこの私であり、受け入れられている私もこの自我である私である
自我しかいない、私が自我なのに私が上位と下位に二つあると思っていたのだ
自我であるこの私が、この私である自我を抱きしめるのだ





もう何処にも行かない
実は何処にも行くことが出来ないからだ
自我であるこの私は何処にも行けないし、到ることはない、悟ることもない
この私が行くところは自我の範囲内でしかないからだ
    何をしても悲しみと苦しみが付きまとい嘘に満ちている
自我もこの私も、同じ一つの自我なのだから、何処にも行けないし、
   何処にも行くこともない、何かに成ることもない、
   だから何かに至ろうしたり、真我実現しようとしたりするのである

だからこそ
私・自我はこの自我である私自身を愛そうではないか
愛があるとか無いとかの話ではない
愛が何であるのか、という愛についての観念は不必要である、不毛である
   ただただ無条件で愛するのだ
愛があっても愛が無くてもただただ愛するのである。
これは急務である、これは重要なことである



わたしはわたし自身である自我を認めて、許して、抱きしめて、愛そうではないか
私の廻りに多くの私自身がいる、自我達がいる、
それは待っているのだ・・愛され抱きしめられることを・・・それを感じるのである
苦しんで、恐怖に歪み、悩んで、恐れている自我を抱きしめ、
自我の言っていることをじっくりと聞いてあげることではないか
自我の考えていることその苦しみと恐怖と悩みと恐れと不安を
一緒に味わおうではないか



これは、何かだからすることではない、何かのためにするのではない
何かになるためにするのでもない、何かを得るためにするのでもない、
何かの目的や利益や成就のためにではない
自我を抱きしめる事が、そして一緒に苦しむことを、自我が自我自身に求めているのだ! 

無条件で愛してほしいと叫んでいるのだ!!
だから、自身を黙ってしっかりと抱きしめ受け入れるのである
これは正しい事ではないだろうか

あるがままの姿をあるがままに見て受け入れることが正しい事だからではないか
















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