成長



Aさん :久しぶりだね・・ごめん、夏休みで旅行をしていたので

B子さん:どう近頃、成長した、何かあった?

Aさん :成長っっ・・成長ね・・・、成長するとかしないとかはこの現在のパーソナリティーのこと?

B子さん:そうね現在のパーソナリティーのことだけど・・

Aさん :現在のパーソナリティーって、成長するのかなぁ?段々良くなっていくのかなぁ?進化していくのかな〜?

     確かに本人はそう信じているし、そう思っているんで生まれ変わって段々良くなると思っているんだけど・・・

     変わって行くのは本人なのか、それとも根源のプログラムなのか、それとも記憶なのかということだね

B子さん:う〜ん、いずれにしても成長しているその希望がないと生きている意味がないしね、ハッピーエンドにならないわ

Aさん :その成長し、段々良くなる、理解が深まっていく・・・等々、確かにそれは、そう見えるよね

     けれどもそれは同じ円の中を中心という杭に繋がれたまま、限られた時空間の中を回ってしかいないのでは
 
     と、そういうようにも思えるけど

     そこは、常に「他人とは一つではない」という分離感が支配し、自ではない他を認識することでの競争心と嫉妬心が潜み

     到達しよう、到ろうとする成功欲、差別感、傲慢そして到達する満足感というような、自我をさらに強固にしていく

     過程だと思うんだ

     その成長し、段々良くなっていこうとしているのは、

     進歩していくのは他人ではなくて、結局は自分であり、自分が重要で自分にだけしか

     関心を持っていない「分離した自己」をさらに強めるようになると思うんだが・・・・

B子さん:そうね、その自分が段々に成長していくという観念自体が自分の事だけに関心を抱いている自我の働き

     を感じるわね

Aさん :それを賢者たちは「良くなることは良きことを否定する」とか、「善くなろうとする事は善きことではないものの働き」

     だとかいわれているよね

B子さん:あるがままから離れることが善くなろうとする事よね

Aさん :う〜ん、それは確かにそうだけど、あるがままは難しいよ、あるがままは自我というパーソナリティーがある程度、

     形成されていないと話すことさえ難しい言葉だし

     このあるがままを曲解して自分たちはあるがままから逃避しているのにあるがままであるんだ等と言って好き

     放題をしたりしている精神世界の人をよく見かけるからね

     正直言って僕にはあるがままは話せる段階ではないし、その資格もない、あるがままを知らないからだよ

     僕とはあるがままを非難したり、「逃避するために一体化したり」、憎んだり、恐れたりしていることはあっても

     あるがままを直視したり、それをあるがままに見ると言うことが起こっている段階ではないね

     あるがままを見るためには目が必要だし、その目が僕には開いていないので、あるがままを見ようとはしているけど

     決して見ていないことしか分からないね

     あるがままを見るためにはあるがままから逃避したり、非難したり、判断したり、名前を付けないで直視する覚悟が

     必要なんではないかなぁ〜

     自分の内側と外側に起こっている事をあるがままに見るためにはそれを受容して受け入れ、逃避のための同一化

     などをしないで、それと分離することなく凝視する決意が大切だと思うね

B子さん:クリシュナムルティーなどは、そのときその凝視の中に静けさが訪れて、観察者と観察されるものがひとつに

     なった状態が誕生する・・と言うような意味のことを言っていたわね・・・

Aさん :う〜ん・・話が大分ずれてしまったけど、

     成長するという事の次元はあるがままとは別次元だと言うことだね

     その成長する、進化すると言う次元と、あるがままの次元は違うと思うよ

     成長すると言うことは分離した自己と云う現在のパーソナリティー(葛藤と苦しみと恐怖の)の次元だし

     それは過去現在未来という「今を分離している」時間と云う次元であって、それはマインドであり、記憶の次元だよね

     そこは、自由もなく、解放もなく、未知なるものもなく、既知なるものからの自由もなく、真実もないマトリックスの次元だ

     と思っているんだ

B子さん:ふ〜ん、それで

Aさん :その次元の事だけど

     次元の構成は各次元は別々であるのではなくて、根源的な「空・無限」次元が各現象している次元を支えているん

     だと思う

     この絶対次元という「愛」が無ければ錯覚のマトリックスは存在できないし、自我も真の私があるからこそであり

     映画はスクリーンがなければ上映できないというのと同じで、空があるからプログラムがあるというわけだと信じている

     わけだよ

     あのスワミ・スリ・ユクステワの解説図を部分的に切り取って見るのではなくて、一括した全体が一つのものとして

     見た方が分かり易いんではないかなぁ〜

B子さん:こちらからは何もする事もなく、何かになることもなく、何もしておらず・・・・、観照者である本当の魂からの働きかけが

     あるからこそ、この次元での救済もある訳ね

Aさん :それを自由と言っているわけだけど、この自由はこちら次元ではなく、あの非分離の次元である魂の働き掛け

     そのものをそう表現しているわけだよね

B子さん:そしてそのキッカケとなるものが、いつ如何なる時でもあるがままをあるがままにあるがまま見ることなのねぇ〜

Aさん :僕はそう信じているし、それを感謝しているよ

B子さん:ありがとうね




























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