二つとも受け入れる
ラーマクリシュナは語っている
「私は、永遠(常住不変・ブラフマン)と現象(神・イーシュワラの遊戯・無常)の
二つとも(有・実在として)受け入れます」
「あのお方を得たら、あのお方が実は各個我のうちにも存在し、
あのお方が実は万有に遍在しているのを知る事が出来ます。
(※この観点とは、私達が「幻想である現在の人類の標準の眼」でのみ視る事がなくなり、魂の内なる真の私の眼が
輝きだし、五感の眼ではなく、六感の眼でもなく、第七感の眼でもなく、それ以上の眼の知覚でもって見ることが必要である
その第八感以上の眼で見ている視点をラーマクリシュナは述べている。それを単に知識だけで知り、そのように思い込む
ことは、単なる誤解を生んでいるに過ぎない。それは理解したのではなくて、オウムのように文章を暗記したに過ぎない。
ラマナ・マハリシやラメッシ・バルセカールの本を読んで頭で記憶し、自分のこの最低な五感の眼しか機能していない状態の
次元で、彼らの真似をして、そのように話し込んだとしても、それは理解しているのではなくて単に誤解しているに過ぎない。
このラーマクリシュナの言葉を理解するためには、現在のパーソナリティーが魂と結びついて魂の内奥の真我に直結して
いないかぎりは不可能である。
それにも拘わらず、自分の現在の私がその魂の状態ではないのに、ラーマクリシュナやラマナ・マハリシと同じような事を
話したり、述べたりすることは嘘をついていることになるので注意されたい。
そういうことでここから以下のラーマクリシュナの言明は魂の内奥の真我からの直接の言葉であることを銘記されたい)
あのお方は、実は不可分の有・知・歓喜であり、
(※不可分の有・知・歓喜とは「見る者と見られるものとが分かれていないブラフマン」のことで、即ち有とは存在であり
知とは、智慧であり愛であり、歓喜とは純粋なる私なき法悦のことである。即ちサット・チット・アーナンダである)
あのお方が、実は生き物と宇宙になっておられるのです」
「あのお方ご自身が全ての全てなのです。
神はみずから、生き物、宇宙、それら全てになられたのです。
完全な神の智慧を持つようになれば、その時には、そのように知り(認識し)ます。
あのお方が、思考機能、統覚機能、(器官を伴った)身体、
二十四の宇宙原理全てになっておられるのです」
「(ラーマクリシュナは歌って)
全てはあなたのご意志、我が儘一杯の女神よ、それがあなたである。
あなたの仕事を、あなたがなさる。おお母よ
(※此処での女神とは、ブラフマンのことであり、そのブラフマンに創造された存在が現象を司っている
イシュワラ神である。世界の神々とはそのイシュワラ神に仕えている神々のことであるが、ラーマクリシュナの
ここでの女神と言っている存在は、これはイシュワラ神や神々を創造したブラフマンのことであると思われる)
それなのに人は、為しているのは私だという。あなたは象を泥の中に留め、跛足の人を山に登らせる
おお、母よ、誰に、いつブラフマンの境位を与え、一体誰を転落させるのですか。
私は機械、あなたは操縦者、私は住居、あなたは住人
私は馬車、あなたは御者。あなたが動かすように動く。
(とラーマクリシュナは歌った)」
「純粋精神によって、非精神的物質に到るまで、精神(有・知)になっているのです。
それによって手も足も身体も動いているのです。人は身体が動いているのだと言いますが
しかし、あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです」
(※「私達は行為していない、神が行為している」のだと言っているラーマクリシュナはどの状態から話している
のであろうか?彼の言うように私達が言うことが出来るのは、私達が有種三昧から無種三昧へと入り、そこで
現在のパーソナリティーが魂に吸収され、さらに魂が魂の内奥の真我に合一し、そこから更に先へと進み
完全に「自他の分別や、自他の分離の心」が消滅した「第七界層」(次のオクターブの更なる次のオクターブ)に
到達し、ブラフマンと魂が融合しているときの状態が、この「自分は行為していない」「神が行為している」という
実感をしている次元なのである。
それにも拘わらず、この自我や個我を自分だと思い込んで「対象を自己とは分離したもの」として知覚し、記憶して
いる自我と個我でしかない偽の私が、ラマナ・マハリシやラメッシ・バルセカールやニサルガダッタ・マハラジの本を
読んで、暗記して、そのように「行為は起きているのだ」と思い込んでいても、それはラーマクリシュナの観点とは
全く異なっている。
ラーマクリシュナのように「行為は神が行為している」と言っているのはブラフマンであり、それを個我や自我が
「自分はそのように信じて実感している」と思っていても、その内実は、その意識の中身は全く異なっているのである
それを言えるのは自分があらゆるもので有り、自分は全ての中に遍在しているとの完全なる実感、ブラフマン自身の
直覚があるときのみである)
「あなたたちの存在は何処にあるのでしょうか?
あのお方が(母なる神)が全てのものになっておられるのです。
そのお方を知らないあいだ『私』、『私』、と繰り返しているだけです」
「全ての人が、あのお方(神)を知る事が出来ますし、
全ての人は救われるでしょう。
ところが、或る人は朝の内にそれを食べることができ、
或る人は昼の時間に、或る人は夕暮れ時になります。
しかし、誰も食事無しに終わる人はいません。
全ての人が、自分本来の姿を知る事が出来るようになるでしょう」
「この『私(個我・自我)』は、あのお方自身が置いておかれたのです。
あのお方の遊び、あのお方の遊戯です。
あのお方を見る事が出来たら、全ての疑いは無くなります」
「絶対であるお方は、実はこの現象界なのです。それは二つでも多数でもありません」
「あのお方には全ての事が可能です、
無形(無相)であるそのお方が、実は有形(有相)なのです。
あの方は個物であるとともに、実は普遍です。
あのお方が実はブラフマンであり。
最高神の神聖な力なのです」
「もう一つあります、あの方はあなたの見ている全てのものになっておられるのです」
「あのお方は常住不変ですが、実は、現象界はあのお方の遊戯です。
あのお方の遊戯が実は常住不変のあの方なのです。
絶対者を除いて相対界(神の創造、宇宙の顕現は神の遊戯であること)を理解することは出来ません。
(※「行為しているのは私達ではなくて神である」と言うことを真に理解することが出来るのはブラフマン
だけであると言うこと。このことを正しく理解出来るのは自我ではなく、個我である現在のパーソナリティー
でもなく、魂でもなく、魂の内奥の真我ですらなく、さらに根源の絶対者ブラフマンだけであると言うこと)
相対界があるからこそ、それらを捨てていくことによってこそ、絶対者に到達することが出来るのです」
「『私という分離意識』が有る間は、どうしても相対界(変転の世界)を捨てることは出来ません。
これではない、これではない、と否定を重ね、
瞑想のヨーガによって、人は実体(ブラフマン)に到達することが出来るのです」
「これではない、あれではないと言い続けてきた識別が止むところ、
そこに在るのが永遠のクリシュナです」
(※クリシュナムルティーなどの否定的接近をしている識別が停止し
「ネティネティ」を超越している更なる絶対次元があると言うこと)
「世俗の暮らしをする人にとっては
一切は夢のようであるというような、そのような教義は
全て良くありません」
(※ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールが説いている「世界は映像であり夢である」との
教えは、努力や意志が自動的に行われる魂の次元に入っていない段階の、三界の次元の知覚しかない
レベルの現在のパーソナリティーや個我に対しては、自発的な努力や正しい意志を否定することになっ
てしまうので、適切な教えではない、ということになってしまう。個我が魂に吸収されていないレベル。、
そのレベルの個我・現在のパーソナリティーにその様に言うこととは不適切な教えとなってしまうのである
魂の内奥に個我と魂が繋がっていれば、この肉体も、この世界も、この太陽系も、この宇宙も、そして
この目に見えている全ての全てが「魂が投影している事に過ぎない」と言うことが直覚されるという)
ヴィヴェーカナンダの言葉
「それゆえに、私は、苦しみや困難を受けなければ、神に全てを捧げる事は出来ない。
完全に神に委ねることが出来なければならないのです」
(※ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジを読み、丸暗記して「私は肉体ではない、思考ではない、
私は在る」等と口だけで喋っていても、その喋っている本人の状態が自我に覆われている状態の個我
であり、決して魂と結びついてもおらず自我から解放されていないのは、知覚の状態を見れば確認できる。
「憑依によって引き起こされた霊眼」ではない超感覚もなく、魂の感覚である神聖プラーナを知覚できず
まして魂の内奥の私の感覚である同調・アチューメントがない以上は、それらの覚者がたの言葉を
話したり、自分で分かったつもりになっていることは偽善であり、自分にも嘘をついていることになる。
私という主体が自我と個我と魂と真我に分裂しているからである。
この私が統一することができる鍵を持っているのは魂であり、それは個我であるサイキック体とメンタル体
が魂と一つになることがその鍵であり、それは上位の私である魂にしかできない。
個我である現在のパーソナリティーにとっては真我への信頼と信仰と、真我への誠意と想像が重要なこ
ととなる
この三体の整列が、私の統一をもたらし、そしてその三体の整合の中で初めて自我は終焉する。
そして、その主体の統合の中で初めて、われわれは「私は肉体ではない、思考ではない、私は在る」と
言うことが許されるのである
「神ご自身が、あなたを通じて多くの仕事をするために、あなたの中に、
その自我意識を残しておかれた、ということです」