はたして思考はやってきているのか、それとも私が思考しているのか
ラマナ・マハリシ「あるがまま」より
「現状に於ける困難は、人が自分を行為者だと考えていることにある、だが、それは誤りだ
全てを為すのは高次の力であり、人は単なる道具であるに過ぎない
自分が行為していると感じている人は錯覚をしている」
「『私』や、『私のもの』という実感、行為者という感覚が束縛(久保:カルマ)である」
「カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。
自我がその源の中に溶けて姿を消してしまえばそれに依存しているカルマも生き残ることは出来ない、それ故「私」がないところにはカルマもない」
「『私』や、『私の』という幻想を消し去り、しかも【私】として残る、それが真我実現のパラドックスである」
「動機のない行為をする『私』、、神から分離したと感じ、その彼と結ばれたいと熱願する『私』、自己の真の本性を見失ったと感じている『私』、この『私』の源を見いだしなさい、
そうすれば全ての問いは解決するだろう」
「真我の体験、即ち神の体験とは愛である、それはただ愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけを嗅ぐ、それが至福である」
「真我である体験、それは心の静寂である」
「真我の実現であるものは、世界は普遍の愛で満ちていることを知るであろう」
「あなたが全てに神を見るとき、果たして神のことを考えたりするだろうか、神を知るとは神として在ることである。
神は遍在し、何一つ神から離れて存在しない」
「自分が存在していない事を知っている状態だけが栄光ある至高の智慧である」
思考は外部から、私の意識の表面に(魂の表面に)やってきているのか
それとも私がこのように思考しているのか
行為は肉体を動かして根源が行為しているのか、それとも《私》という自我が行為しているのか
私が人を好きになったり、嫌いになったり、願いをもったり、祈ったり
そのような概念を抱いたり、或る想念や考えや、先入観をもったりしたりすることは
そして、そのようにして私が行為(思考も行為である)をしているのだろうか、
それともそれはやってきて起きていることであるのであろうか。
前世で宿敵同士だったものが、そのカルマを果たすために、今世で、出会ったときから、お互いが好きになってしまい、駆け落ちまでして、一緒になり、そして結婚生活の中で、そのカルマを果たしていく−(地獄の家庭生活を経験する)−という話しは良く聞くことであるが。
けれども
そのようなカルマは、それまた以前のカルマの連鎖から起こっており、それ以前は更にそれ以前というように果てしなく続いており、
このカルマ自体は「自分という輪廻しているサイコノエティック体」を媒体として生み出し続けている「根本想念」によって作られたシナリオであって、
そのシナリオ通りに、この人生(この世でも、あの世でも)という舞台の上でそれが上演されているのだ。
この転生し続けている「サイコノエティック体という継続している記憶の私」とはプログラムそのものであると私は信じている。
この筋書(プログラム)通りに、役を演じている役者が私という「意識の表面(魂の一部表面)の私」であり
役者が思ったり、行ったりしていること、即ち《舞台上の演じられている私》とは台本通りに演じられている「役」のことであり、役者さん自身とは全く異なるものである
これが実際の私たちの意識の表面で起こっている《人生》というものではないだろうか(悪役を演じている人は悪人ではない、悪人でも善人でもない素顔の役者さんである)
けれどこの舞台は、それが肉体の死後も続いて演じられていく。
この演劇舞台は他の惑星をも含んだ宇宙にも跨って三界を輪廻していく。
そして、その役者さん自体も、次の人生で、どの星でどの役を演じるのかを選択して生まれてくる。記憶を消されて、又は記憶を消されないで。
けれどもその役者さんも、実は更にその奥におおきな仕掛けがあって、
自分が演じていることを知っている魂という役者自体が実は現象界という全体の大きな三界の輪廻の舞台をプロデュースして、演じている「根源」の一部だったのだ、ということではないだろうか。じつは一人しかいなかったのだ。
この役者(魂)も実は現象界という大舞台を製作し演じている「根源」の演技プログラムなのだ。
だから生まれる前に、その魂が、どの親を選ぶのか、そして自分がどのような人生を生きるのかを選択して、ストーリーを決めていることすらも、実は「根源」の舞台の一部のプログラムなのではないだろうか。
「根源」が演技して、自分を魂であるように思いこみ、根源の神に帰還しようと必死に思い込み、色々な私という役者になって、人生をどのように生きようとか、学ぼうとか、そして次回の人生ではどのように生きようかなどと、ストリーを選択し、生まれる親を選んでいるかのように思い込んで、そして自分が行為していると錯覚していても、実際は一人しかいないのではないだろうか。
肉体の行為も、思考も、感情も、出来事も、カルマも、運命も全ては舞台上で演じられていること、そしてその演じている役者さん自身も根源の一部であって根源が演じているのであると云うことではないだろうか。
だから私たちは演じている役者ではない、私たちは、その役者という魂ではない、私たちは私たちにとっては未知なるものであるところの「輪廻してない全体である一者」なのだと云われている。
翻って見渡すと、なんと私たちはこの見えている仮象の現実で、自分たち自身が思い、行っていると錯覚していることであろうか。
昨日の私たちに起こった感情や、好き嫌い、嫌なこと、楽しかったこと、どうしようもなく押し寄せた或る考えや、出来事や、感情は、よく見れば分かるように、私たちにやってきていることであり、それは「私の意識の表面(魂の表面)」の意識そのものではないのだと、覚者は言われる。
それは魂に起こっていることであり、魂自身がしていることではないのだ。真の魂とは奥にある観照者であると云われている。
思考や感情は私たちの意識の表面(魂)にやってくることだろう、それはプログラムとして、ワサナとして、運命として、自我として、カルマとして起き、やって来ては去ることだろう。
しかし、それをあるがままにじっと動かず、それにかき乱されることなく、私ではないものとして、そして同時に「見るものは見られるものである」私自身が投影しているものとして凝視することが出来れば、それらのプログラムや自我や、ワサナや、カルマは私たちを引きづり廻すことはなくなるのではないだろうか、私たちはそれらから自由である、解放されている、と言えることが起こるかもしれない。
そのように、この実存の意識状態のマインドで思う事すら、(そのように自分の態度を決定することとは、)本物ではないにしてもある程度の働きをしてくれる。
完全な自由とは、これらのプログラムの観察者である「魂」そのものの解消ではあっても、このようにマインド自体がマインドの態度を決定することはいくらかは(幾分かは)自由の片鱗を窺い知ることが出来るようになるかもしれないのだろうか。
それでも、この肉体と、この頭脳と、このプログラムがある限りは、「思うように思わされ」、出来事は決まったように起こり、肉体は決まっているように行動し、そして老い衰え、死にいたることだろう、
この頭脳は決められているプログラムにしたがって思考や感情、欲望が起こり、即ち、どうしようもなく好きになったり嫌いになったり、そのように考えたり、先入観をもったりすることであろう、しかしそれらは私にやってきているものであり、私ではない、と言われている。
それは「意識の表面」にやってきては去っていくものである
それは「意識の表面」である魂ではない、私ではない(久保栄治という個人の人格もパーソナリティーも私と言う魂ではない)と云われている。
私たちはやってくるカルマ達のそれを私自身【「意識の表面」である魂の私】ではないと、確信し、理解したとき
それらのやってきて起こっているものからいくらかは解放される。
カルマはやって来るだろう、しかし最早、私である魂はそれに振り回されることはないだろう、と推測している。
出来事はやってくるだろう、しかし最早、私である魂はそれに振り回されることはないだろう、と推測している。
思考や感情はやってくるだろう、しかし最早、私である魂はそれに振り回されることはないだろう、と推測している。
肉体の健康や病気や死は、そして行為はやってくるだろう、しかし最早、私である魂はそれに振り回されることはないだろう。と云えるようになったら素晴らしいのだが。
というのは、私はカルマも、運命も、出来事も、行為も、思考や、感情も、そしてそれを認識して体験しているこの魂ですらも『「真の私」である根源』が行っている演技であることを理解することが最重要であることを深く信じたいからである。