現在意識が無意識を観ること
(無意識の根底には叡智と愛が在る)
深夜ひとりでいると、何処からともなく恐怖がしんしんと忍び込んでくる
それは内側からか?それとも外側からか?、しかし、そのような詮索は不要だ、要点が外れるからだ、それは問題ではない
恐怖を感じ、恐怖に取り囲まれ、恐怖に怯えている私を、・・・・・・・私は観ている
この観ている私とは恐怖の観察者であり、恐怖に怯えている私を観察している私だ・・
・・・しかしその観察している私とは、単なるゲーム上の私にしか過ぎないことが直ぐ分かってくる
「恐怖に怯えている私」と、その「恐怖に怯えている私を観察している私」は全くの同一人物である
恐怖が「恐怖に怯えている私」と、その「恐怖に怯えている私を観察している私」とを生み出したのである
「観察者は観察されるもの」だ
恐怖は一つだ、恐怖でしかない、恐怖が私なのだ、観察者は観察されるものだ
恐怖とは思考の条件付けによって生み出されている反応であり
(自我と同様に恐怖も思考も頭脳の条件付けによって生み出されている結果であり、人類は全く同一構造であり、この自己意識
この自他の分離そのもの、自他の区別ということが全人類に全く同一仕様の頭脳によって生み出されており、このような「個人と
いう感覚」、「自分の思考」「自分のいのち」「私の体」「私の人生」という個別感覚を頭脳が生み出しているのである)
その恐怖を観察している私も、恐怖と同様に思考の条件付けによって生み出された反応の結果である
けれども、そう言われることで満足してそこで留まってしまうことは、私達を何処にも導かない・・
では、さらに進もう
その反応という条件付けによって生み出された思考と恐怖の元へと
即ち恐怖などの条件付けをしている根底へと(大元へと)更に進んでいこうではないか
条件付けの結果が条件付けの原因へと進んでいくのである
それは具体的にはどういう事かと言えば・・その恐怖のまっただ中に、恐怖の中核に飛び込んでみるのだ
その恐怖を非難なく、逃避することなく、判断することなく、言葉を使わず、味わうのである、苦しみを味わうのだ、観るのである
いままで私達は一度も、恐怖を味わうことなく、全体的に観ることもなく、それらからただただ逃避し、避け、非難してきた
それをここでは止めて
その恐怖のまっただ中に飛び込んでみようではないか、しっかり味わいきるのである
この恐怖と全く同じように、私達は自我と出会うと、それを非難し、それを殺そうとしてきた、その自我に対して
為してしまうことと同じ事が今此処でも起きている
私達は実は恐怖に会ったこともないし、自我にあったこともないのだ、会う前に逃げ出していたからだ
恐怖と共に、恐怖の中に、そして恐怖の根源へと進んでいかねばならないのだ
このことを神聖なる方々は
「現在意識が無意識を観ること」
「無意識の根源には神聖なる叡智と愛が在る」と教えておられるのではないかと推測している