「それ」は真我と言われている





「それ」は真我と言われている

勿論「それ」は言葉も思惟もかなわない実在の事柄であり、わたしが類推したり書くことは畏れ多く憚られるが

その絶対なる実在の状態こそ「すべての私」=真我と顕されるのであろう

この「すべての私」が現象界に顕現したとき、それが真実の私(ソウルセルフエピグノーシス)で、その降下である

のが永遠のパーソナリティー(観照者・目撃者・魂・ハイヤーセルフなど)といわれている




考えてみれば直ぐに分かることであるが


★私達はまさか、この肉体を現在のパーソナリティーが造ったとは思わないだろう。
この肉体は自分の肉体だなんて思わないだろう

(世界中の科学者が集まっても生命有る肉体を造り出せないのだ)

「自分は肉体だ」、若しくは「肉体を自分だ」と思っている現在のパーソナリティーを造ったものが、
肉体をも造ったのである、それが真我であるだろう


★まさか、この五感の感覚は自分が生み出したのだとは思わないだろう。
この五感は「自分の五感」だなんて思わないだろう


(もの凄く複雑な過程を経て、又頭脳と神経組織の連係プレーの結果として感覚の認識が発生しているのが五感。
その五感であるこの視覚や聴覚などの知覚を自分が生み出したとは誰も思わないだろう
自分に五感を生み出すことなど出来ないからである
自分はこの五感があるところの肉体に生まれて来たのだから)

この五感や超知覚を生じさせているものが、
同じように、
この五感や超知覚を「自分が感覚しているんだ」と思い込んでいる現在のパーソナリティーや自我を
生み出したのである、

肉体と肉体に入ったものの両方を生み出しているもの・・・それが真我であるのだろう


★まさか、この記憶システムを自分が生み出したとは思わないだろう

(通常、何気なく生きている私達は、記憶作用が正常に機能しているので生活を維持している訳である。
この驚愕すべきパソコンにも似ている記憶組織と記憶システムと
その記憶の反応システムというようなものを自我が生みだしたとはおもわないだろう。
自我とは、この自我という記憶とは、記憶システムの結果生じている記憶の反応なのだ)

なのでこの驚嘆すべき記憶システムとそのシステムの結果生み出されている自我を生み出したのが
真我と言われている根源ではないだろうか



★まさか、この行為は自分が為しているとは思わないだろう

(行為とは筋肉組織や神経細胞のみならず、自律神経や体制神経系それらが密接に絡んでいる超高度な連携
システムの上に成立している事であり、
肉体と頭脳と神経とあらゆる運動組織の連携で成立している事柄なのである。
このような非常に高度の機能を協調して円滑に動かすことは、到底自我には出来ることではない。
自分が思うように動いてしまう乗り物である肉体に生まれ落ちて、気がついたときから、そうであるので
自分が行為していると思い込んでしまうように、完璧に自我は思わされている。
即ち私達個人の自由意志による行為とはこの機能によってコントロールされているのである)

この観察者という現在のパーソナリティーでもあり、
自分が行為していると思い込んでいる「行為者・自我と観察者」を
生み出して維持して、行為させているものが、
真の行為者である『行為している根源である「真の私」』ではないだろうか



★まさか、この生命は自分のものだとは思わないだろう

(いのちとは血液循環や心臓や毛細血管やリンパや呼吸する肺やそのシステムのうえで成り立っており、
いのちそのものは誰が造ったのか?、誰が支えているのか?、
この自我はいのちといものがあるので、その結果として生きていることが出来ているだけで、自我がいのち
を生み出したのではない。
いのちがあってその結果として自分という意識は生じているのである。
動物魂が肉体に入ったので生命は維持され
魂が肉体に入ったので現在のパーソナリティーと自我が活動しているのである
それは考えれば直ぐ分かることだ)

いのちの根源である真の私がいのちを生かしめており、
そのいのちが、魂として肉体に入ったので
この自分が生きていると思い込んでいる自我・現在の
パーソナリティーを生かしめているのである



★まさか、この思考は自分が生み出してるとは思わないだろう

(心象や具象や抽象も、そして思考も、生命とこの頭脳と記憶システムがあって
それがあるが故に生み出されているもので有って、
この自我という現在のパーソナリティーにはその思考システムを生み出せないし、
いくら自分が思考していると思っていても
自我には思考はできない
思考とは思考システムの結果であり、
自我とはその思考の記憶の反応したものなのである)
従って

この錯覚も、この実存も、この出来事も、映像も、そしてまたそれらを
「自分が思考しているのだ、自分が出来事を生み出し、自分の人生だ」
と思い込むように聖なる催眠をかけて現在のパーソナリティーを支え、維持させ、機能させているのが根源であり、
その根源とは真我から生じているマーヤであるのではないか
マーヤである根源とは聖なる催眠であり、それは究極の真我から生じているのではないだろうか


★まさか、この自分は自分が生み出してるとは思わないだろう

この私という、自分にとってはよく分からない、複雑な内面を持つ自己
この自己は、現在の自己意識である、この私はこの私が生み出したのであろうか
それとも、この私という意識は、与えられたのであろうか
他と分離し、自分を肉体だと思い、想い悩み苦しむこの私
自分の思考だ、自分が知覚しているだと思っているこの私
この私はどうして生まれたのであろうか
勿論肉体やサイコ・ノエティック体のことを言っているのではない

この分離している私を生み出したのは分離していない私ではないのだろう
私は真の私によって生まれたのである
私が生きているのではなくて、私は生かされているのだ
真の私が生きているのを
自分が生きていると思っているわけだ


血液を正確に循環させ、肉体を去るまで呼吸させ

「私だ」、「私個人だ!」、「自分の」、「自分が」という記憶や感覚やその私・個人という実感を生み出して

その「私だ」、「私個人だ!」、「自分の」、「自分が」を生み出し、支え

その「私だ」、「私個人だ!」、「自分の」、「自分が」という自我を機能させ維持させているのは

この当人である分離している私・自我ではない。

勿論それは個人や人格ではない。それらは現在のパーソナリティーを生み出したもので有り

その現在のパーソナリティーとは魂から生まれたのであり

その魂とは真我から現象界に下ってきたものではないか

同じように真我からの聖なる根源が織りなすマーヤの世界を

支えているのだ



呼吸もリンパも生命エネルギーも、それらのあらゆる生体の機能を生み出し、完全に機能させて充実させ

五感を成立させ、魂が入る準備をなし

そして魂はその肉体に入ったが故に、記憶の反応に同一化し、自他の分離感を感じ始め、

自由意志を持っている、若しくは自由意志を持っていると思い込んでしまった個人・現在のパーソナリティーを生み出し

その現在のパーソナリティーが自我を造りだしている、



このシステムを生み出し、そのシステムを支えているもの、それが聖なる根源であるマーヤではないだろうか




自分が考え、自分が生きて、自分が苦しんで、自分が成長して、自分は悟っているなどという実感を抱かせて

 「私・感覚」「私」を強大化させ、  

実際に、その私に行為させ、行使させ、維持し、成就させ、成長せしめているもの

この物語を進行させ、文明を生み出させ、文化を花開かせ、そして凋落せしめているもの

「私・感覚」「私」を生み出し、それを使って行為し、行使し、維持し、成就させ、成長せしめているものであるもの

輪廻転生システムをささえているもの、それが聖なるマーヤ

それこそが聖なる催眠であり真我から生じているものであるのではないだろうか





この内側と外側のあらゆるシステムを循環させ機能させて、

内部と外部の分離を維持させ

主体と客体の二元を生み出し、

催眠を持続させているもの、

自我を生まれさせ、発展させるもの

それこそがカルマを完璧に運行させ、物語を完全に完璧に起こさしめているものである。



それが全体であり、ただひとつなるものであるのではないか

このことは見る地点によって異なって見えているらしい

その全体像を見渡せる地点に私達が到達したのなら、全く異なるように見えていることだろう

山の裾野から私達は現在風景を見ているが、頂上では見る景色が違うと言うことである


真我の人に於いては他人にも自分と全く同じ一つなる真我が見えているように

その地点に到った人はラーマクリシュナのようにマーヤも神そのものと見えているのかもしれない




全ての次元の生命を維持させ、記憶システムを成立させ、そして記憶の反応をプログラムに従って反応させ 

個人の自由意志を生み出し、その自由意志を使って行わさせ

行動という、この考えられないほどの複雑な過程を使って行動し、行為させ、行為し

しかも自我や現在のパーソナリティーには自分が行為しているという感覚を生み出し、

その錯覚を支え

肉体の脳のみならず、あらゆる身体の脳を使って思考や感情や記憶を生み出し、

それを用いて

自我である個人を生み出し、

「自分が感じ考えている」という感じを生み出しているもの

自分が行為し、自分の人生であると絶対的に信じ込ませ思わせているもの、

それが根源のマーヤの幻術ではないだろうか

そしてそれを直に見る事の出来る地点に到ったときマーヤは神なのであろう




五感を調整して、それをコントロールし、個人が見ている(私が見ている)という感じを生み出しているそれ

「それ」は根源といわれている

自分が生きているという感じを抱かせている「それ」、

この個人や魂や根源的な私を生み出し、そして支えている「それ」根源、それが聖なるマーヤ・真我ではないか


それに対しては

もう言葉もない

凄いとか、もの凄いとか、そう言う段階ではない



全ての次元と空間と時間を生み出し、現象を維持し、支え
 
最小のものに最大なるものを存在させ

上にあるが如くに下にもあらせ

素粒子に全宇宙を存在させ

あらゆるものを整然と一糸乱れずに運行せしめている「それ・根源」に対しては言葉はない、

理解も解釈も類推も全く超越している


ただただ・・・・自我には驚愕すらないのである



しかも

人間が生み出したPCやロボットならコントロールされている事しかできないだろうが

真我は魂を通じて現在のパーソナリティーを生み出し、

それに自由意志を与えて、

しかもその自由意志を行使している訳である、

そしてその現在のパーソナリティーの自由意志を通じて「私・真我」が生きているのである



真我が現在のパーソナリティーを造り、そして、また肉体をも造ったのである

自分は肉体であり、自分が考え、自分が転生し、自分が知覚し、自分が記憶し、自分が生きており

自分が存在していると、・・・そのように現在のパーソナリティーに思わせているのである、

そしてそれらを通じて自らが行為し、自らが思っているのである


驚愕すべき「それ・全体・真我」が生きている



それも、この私という1人ではなくて

この家族だけではなく、このご近所だけではなく、この日本だけでもなく

この地球だけでもなく、この太陽系だけでもなく、この宇宙だけでもなく

この物質界だけではなく、このバルト界だけではなく、このアストラル界だけではなく

このメンタル界だけではなく、このコーザル界だけではなく、このスピリチュアル界だけではなく



更に、この人間だけではなく、この精霊だけではなく、この動物や、この植物や、この鉱物や

この人工の創作物だけではなく



ありとあらゆるものを生み出し

支え

そして運行せしめている


この私・現在のパーソナリティーというものを魂を使って生み出し、

分離した私の感覚と知覚と認識を生み出させ

心を与え

そして考えを生み出し支え、あらしめているものには

ただただ凄いとしか言えない



否、凄いなどと言うことすら言えない



外面と内面を生み出し、二元分離性を生み出し

外面と内面を支え、維持し、運行せしめているものには

驚愕などと言う言葉は当て嵌まらない

もの凄いなどという言葉は不遜である

それが真の私・真我という「それ」であるのだろう



それこそがミルダッドがいう全てなる分離していない私、全てなる私である













戻る