「起きる」と「起こす」
私は以下のように観念している
(私は以下のように信じている)
「起きる」ということは、根源から起こる、起きている、やってきている、自分も、そして自分が知覚する対象も
起きているところの、映し出された映像である
私たちの行為も、言葉も、思考も、感情も、欲望もそして出来事も結果であり、それは起きている、それらは
映し出されている映像である
が、しかし、その起きている映像は私たちが錯覚しているので成立している、錯覚とは二元性であり、分離性である
映像とは内部の偽の私であり、その私が感知し、知覚している思考や想念であり、外界である
現実という、真のあるがままを見ることができない様に、私たちの目には根源からのマインドという思考のベールに
よって覆れてしまった
その思考のベールは私たちの目を覆い、時間と空間という錯覚、そして自他の分離、二元性という錯覚に覆われ
てしまった
その思考のベールとは「私」という人類共通の同じ第1想念である共通の単一の自我(エゴ)である
その思考である「私」・第1想念こそが共通単一の普遍的自我(エゴ)であり、転生している記憶の塊を頭脳に取り憑
いて発生させ、それが個人の自我(エゴ)と錯覚するのだ
自分が生き、行為して、私は自由なのだ、自由意志があり、自由に行為しているのだと、錯覚している
このように錯覚しているのはこの頭脳の記憶である、それが観察者である
この記憶の塊が肉体の死後も生存して、錯覚が続いている
この錯覚の記憶の塊が転生している本体である
しかし
自分が行っていると思っているが、その思考も欲望も言葉も行為も出来事も、根源から起きており、やってきている
ことだとしたら、……結果であるとしたら
何も自分はしておらず、この自分自身もこの根源からの「私という根本錯覚・第1想念」が生み出したものだとしたら
そして更に又
その行っていると錯覚している偽の主体である「思考である第1想念の私が生み出した自我(エゴ)」さえも、その
根源からやってきているのだとしたら
それを第1想念の一部である個別的自我(エゴ)が「私は自由意志で行為している」と錯覚するように、組み込まれ
プログラムされているのだとしたら
私とは単なる頭脳を経由した記憶の塊であり、
その記憶を引き起こしている第1想念の私も、
そして、第3想念であるところの、この意識の座にやってきている、感情や思考や観念や想念も、
全てがともに私ではないとしたら、
単に映し出されている映像だとしたら…
結果である自我(エゴ)も、そしてこの自我(エゴ)が認識する、内部や外部で知覚される全ては
(この知覚されるのは、ありのままではない、あるがままとは本当の現実であり、思考が分離・二元的に知覚する
錯覚の現実ではない)
原因が生み出した結果であるものであるに過ぎないとしたら
真我から根源を通じて生み出しされた映像に過ぎないとしたら
それであるのに
いつもの「私たちの条件付けの結果であるところのもの」は、
その「起きていること」から逃避しよう、改善しよう、良くなろうとして、葛藤が始まる
これこそがプログラムに従って条件反応を起こしているのだ
「〜になろう」とか、「これではいけない、良くならなくては」、「ああしよう、こうしよう」「ああしなくていけない、こう
あらねばならない」「これは良い、これは悪い」「良くなるように神に祈らなくては」「真我実現しよう」などと言って
騒ぎ出す、がしかしこの動きこそが記憶の塊であるところの「自我(エゴ)という第1想念の構成単位」の特徴ではないだろうか
未来という時間の本質が錯覚なのだ、と言われているではないか
それを
全く逆側から見た場合、これらの全ては根源が起こしているのであるから、この根源であるところのものの更なる
奥のパラブラフマンにとっては「起こしている」といえるのではないだろうか
(一つの喩えとして、
スクリーンという意識の座に写っている映像を
映し出しているフィルムと映写機が根源からの第1想念だとすれば、
その更に奥にあって、光を出してフィルムを投影しているのが光源である真我・ブラフマンとも言えるのではないか、
そしてその映像を映像にすぎないとしてみているものが観照者であり、
その映写されている映画の映像の個人が自我(エゴ)であり、
その自我(エゴ)は、その映像の中で自分が映し出されている結果ではなく自分が思い、行為している、生きている、
と錯覚し
自分の人生だと錯覚していることが、全ての悲しみでもある、
この自我(エゴ)自身も
そしてその自我(エゴ)の知覚している想い、行い、感じ、信じ、知覚し、体験することも
即ちその自我(エゴ)が対象として認識するところのやってきて起こること、即ち肉体や出来事、家庭、環境、そして
行為することも
それらを引き起こしているのは条件付けられたプログラムである、
全ては起こされている映像であり、結果である)
真我実現しアートマンがブラフマンと一つになった賢者にとっては、「起きている」のではなく「起こしている」のである
と言える
モーゼが紅海を割ったように、またキリストが「貴方の信仰が山を動かす」と言われたように、賢者という完全に
自我(エゴ)が滅却し真我と一つになった方々にとっては、それは実際に起こすのであり、本当に世界を変えて創り出
すのであると思われる
自我(エゴ) | 高等思考 | 真我 | ||
意識の座にやってきている、思考や欲望や感情などを自己同一視し自分が感じ、思考し、欲望していると錯覚している | 全ては起きている (根源が起こしている) |
全てを起こしている (真我が根源である) |
||
やってきている意志や思考を自分の意志や思考であると錯覚して、自分には自由意志があるとおもっている | 自由意志というものは実はない、意志もプログラムが引き起こしているにすぎず、この私も、そしてその私が持つとされる自由意志も錯覚に過ぎない | 全てが自由意志でそれは即、実現する |
||
行動とは根源から起こっているのに、自分が行為していると錯覚している | 行動というものには自分は関与していないと感じている、自分は 行為は出来ず、内部と外部の行動が起きているのに気がついている |
完全なる行為をしている | ||
何でもする自由、何でも行う自由 何にでもなる自由があると錯覚している |
自由はない、自分すらも、全てが結果である | 全き自由、完全な自由、完全なる原因 | ||
偽の私である、個人や人格が「私が生きている」私の人生だと錯覚している | 私と主張しているものは思考の記憶の塊であり、想念でしかないことに気がついており、それは真の私ではないと確信している、私の人生などはない | 私である神の生きる神(人)生である | ||
他人は自分とは別であり、社会や世界は自分とは別の存在だ、自分の外部に世界があると思っている | 外部は内部であり、他人や社会や肉体や出来事や世界は自分を映し出している関係性という鏡であることを認識している | 真我・真の私、全体性の私が目覚め、私の中に世界があり、宇宙があると体得している | ||
肉体や三体との同一視 | 私はコーザル体やサイコノエティック体ではない | 完全なる無我の状態 | ||
三体がそれぞれ汚染されて、真我とは全く違う波動を出している | 三体の波動が真我に接近している | 肉体や身体は真我の表現体として 三体が直列して、「中空の竹」状態となっている |
||
見るものと見られるものが別だと思っている、主体と客体は別だと錯覚している、観察者と観察されるものが別だと思っている | 錯覚である自我(エゴ)自体が錯覚を見ているが、更にそれを見ている観察者が死滅しない限り永遠のパーソナリティーは実現しない | 永遠のパーソナリティーとして全体と完全に合体している | ||
起きている恐怖や不安や暴力から、目を背けて逃げようとしている、それらは自分ではないと錯覚している | 恐怖や不安や暴力は見ている観察者そのものである、それらが自分そのものであることを理解して抱きしめている | この非二元性・非分離性の「見る」なかで聖なる奇跡が起こり、この「目」に見られるものは、全ては愛と喜び平安、全体に変容してしまう | ||
完全に眠っているのに目が覚めていると夢を日中に見ている | 眠っていることに気がついている | 眠りから完全に覚醒している | ||
私は(○×△□等々)である | 私は在る、存在する | 在る・存在・実在である | ||
神を信仰や礼拝などの対象・客体と思って、自分以外に有ると思っている | 神は内部にあり、純粋主体として未知なる真我だと思っている、絶対者の気配を感じる | 私が神であり、私以外に神はない、この神以外には何者も存在しない | ||
マインドである自我(エゴ)による自己観察 | 自己凝視、受動的な極度に鋭敏な自己観察が起こる(真我により自動的に自我(エゴ)の暴露・観察が始まる) | 内へも外へも完全なる気づき、あるがままの気づき | ||
全てを功利から、自他を分離して見ている | 思考が自分を創り出し、その思考が自他を分離してみていることに気がついている | 非分離性・非二元性・全体性・完全性であり、今此処であり、時間は終焉している | ||
転生を続けている魂の私・主体が有ると思っている、成長していると錯覚している、成就すると思っている | 輪廻転生を続け、成長している私は私ではない、それはプログラムという私に附帯している第1想念である、それは終焉を迎える | 私は生まれたことはない、私は死んだこともない | ||
自分とは結果であることに気づかず「何かに到達する」「真我を実現する」「神と合一する」などと「〜なる」ことが出来るとおもっている | 全ては結果であり、映像であることに気がついている、何も出来ない、何にも成らない、何も起こっていない、何もしない、何も願わない、完全なる全託 | 私は原因であり、全ての創造者であることを自覚している | ||
自分が肉体を離れて存在している、個別的な輪廻している魂であると錯覚している | この現在の知覚し、記憶し、体験し、経験している自分は映像であり存在していない、自分とは錯覚である | 観照者を超えて真の私・そして真我である、遍満し、常にあり、全てであり今である私 | ||
二元性の自我(エゴ)ゆえに、根源からやってきている映像である恐怖や暴力や悲しみを、対象であると錯覚してしまう | その起こっている恐怖や不安や暴力や高慢や葛藤を、自分そのものとして見はじめている、「見るものは見られるものである」の目でそれを見ている | 「見るものは見られるものである」のなかでは、全てが、光そのもの、完全・完璧、愛そのもの、喜びと平安そのものと変容する | ||
結果 | 自分とは結果であることに気がついている | 原因 | ||
偽我(記憶の塊) | 真我の光で、自分を詐称する偽我があぶり出され始めている | 真我 | ||
良くなろうとして努力している 自己変革しようとしている |
なにもしない、何にも成らない、何も出来ない、何処にも行かない、何も起きていない、ただある | すべてを為す、すべては成就している、今の中で全ては完成している | ||
自由意志があると錯覚する | 自由意志は無い・すべては起きているプログラムにしたがって起きている | 自由意志・意志そのものであり・意志は成就する | ||
私は知っていると錯覚し、知識と情報とは無知であることを認識していない | 私は知らない・私は無知である、自分とは無知であることに気づいている | 全知全能である・智慧そのものである | ||
私はエネルギーに溢れて、パワーがあり超能力や超知覚も持っているのだと、一時的に現象が起きているのを自分の力だと錯覚する | 私は廃人であり・私は死人である、既に死んでいる | 全ての能力を超えた、超知覚、超パワー、超エネルギー、全ての人、全ての出来事を知り、動かす | ||
既知なるもの | 未知なるものに気がついている、後押しされている | 未知なるものそのもの(思考では接近できないもの) | ||
自分とは思考という(愛ではない)ものなのに愛せる、愛しようと錯覚する | 真我・真の私が愛であることに気がついている | 愛そのもの | ||
現象界・または意識界(物質界・幽界・霊界・神界などで他の惑星や恒星も同じ) | 輪廻していない天界(他の天体とも、他の宇宙とも繋がっており同じ) | 神の國・非二元界・絶対界(この中には次元は存在しない、全ての意識界・現象界を含んでいる) | ||
分離性・二元性・根本無明 | 分離性・二元性に気がついている | 非二元性・非分離性 | ||
思考・マインド(眠りの意識) | 高等思考(眠りの意識に気がついている)・気づきが時々後押ししている | 気づき(または完全意識) | ||
条件付けられている プログラムされている |
条件付けられている・プログラムされている自分とは、結果であり、その条件付け、そのプログラムが生み出したものであることに気がついている | 条件付け・プログラムをしているもの | ||
プログラムされた記憶の塊 | 記憶ではないものに気がついている 自分とは記憶の塊であることに気がついている |
完全なる全体記憶も有している | ||
木々や動物と話せない | 木々や動物や鉱物と話せる | 木々や動物や鉱物や全ては私自身である | ||
対象の世界があり、この物質世界、次元世界、次元宇宙が自分とは別個に存在すると感じている | 対象世界が消えかかる、この物質世界や次元世界、宇宙が消えかかっている、そして観察している自分も消える | 世界は宇宙は全ての次元はマーヤであり、幻である、真の私が全宇宙である、真の私の中で宇宙は成滅している | ||
自分には意識があると思っている | 自分は意識ではない、単なる思考であることに気がついている、私とは思考である | 意識そのもの、宇宙意識、全体意識そのものである | ||
現象世界 | 実相世界 | 現象界は実相界が支えている、分離していない | ||
色 | 空 | 色即是空 空即是色 |
||
眠っている | 眠っていることに気がついている | 目覚めている | ||
欲望がある | 願いは何もない、欲望や願望は一切何もない | 全ては成就している | ||
時間である過去と現在と未来の分離、時間が支配している | 時間であるマインドの理解 | 時間の終焉、「今・此処」の出現、実現 | ||
騒音であるマインド・心の波動 | 静寂・沈黙 | 記述不能な絶対存在 | ||
仏道とは自己を習うことであり、自己を習うとは自己を忘れることである→自己を忘れるとは万法に証せらることなり(すべてに秩序が来たること) | 身心脱落 | 脱落身心 | ||
自力門 | 他力門 | 自力と他力の融合 | ||
私(偽我) | 私(観照する私からの光) | 私(観照している本源の真我)・絶対者 | ||
未知なるものを既知なるものであると錯覚 | 既知なるものは未知であるものではないことの理解、未知なるものの閃光 | 未知なるものそのもの | ||
超能力・超感覚・第6感 | 全体感覚・第7〜8感 | 超超感覚・超超能力 | ||
過去・現在・未来 | 時間の停止に近づく | 今 | ||
個人・人格として肉体や三体を持っていると錯覚している私 | その錯覚している私自身がプログラムであり結果に過ぎないのを理解している私 | プログラムを生み出した私・全体の私 |