観察者・観照者・全体一つなるもの
観察者と観照者と全体なる私との関係のことを、私はクリシュナムルティーの言われている
以下の言葉と関連づけてみた
T:虚偽を虚偽と見る事
↓
U:虚偽を虚偽と見る事の中に真理を見ること
↓
V:真理を真理と見ること
とこの様に叙述しておられる
では始めの「虚偽を虚偽と見る」とは何だろうか
この虚偽とは観察者のことではないだろうか
虚偽を虚偽と見るとは
観察者が観察者を観察していると信じているが、その観察では真には見ていないことを理解することである
観察者とは欲望であり、有名になりたい、何かに到達したい、何かになりたいと熱願している私であり、記憶
し思考する私、ロボットの私であり、自分が行為していると信じている行為者であり、所謂、
自我のことではないだろうか
観察者とは自我であり、結果であり、ロボットであり、行為していると思っているこの現在の私である
この私である自我が自らを対象にして観察していると思っている状態が観察者の状態である
この観察者による観察とは
▲見る者・自我と見られるもの(思考や感情や欲望)とは分離していないのに、
▲見る者と見られるものは一つであり同じであると言うことなのに
▲見られている対象が見ている主体であると言うことであるのに、
▲主体と分離している対象というものはなく、それを対象として観察している観察者は対象であると言う
ことであるのに、それにも関わらず
「見るものは見られるものである」ではないと思ったり、主客の分離を信じたりすることが虚偽である
観察者の観察なのであるということだ
「見るものは見られるものである」であるのに、自分は自己を観察していると思い込むのが観察者である
この観察者は
それを主体と客体とが分離した状態すなわち自己という主体が対象を認識して、自己とは別に対象が
有るのだと錯覚し
対象として何かを知覚したり、認識したり、見たり、聞いたり、触ったり、感じたり、考えたり、記憶したり
することではないか、
そのように間違って観察している状態が虚偽という観察者の状態だと言うことであるのだろう
見る者とは主体・私であり、見られる者とは客体・対象であるから、
主体は客体とは別々ではなく主体は客体であると言うことであるのに、
そうではないと思わせ、信じさせ、知覚させ、思考させ、記憶させていること
こういうことの虚偽を虚偽と言っているのである、この虚偽の状態こそが観察者の状態である
なのでこの現象し、マトリックスを引き起こしているこの観察者の全プロセスの虚偽を虚偽と見る事の
重要性を指し示しておられる
この虚偽とはマトリックスのことであり、聖なる催眠が引き起こしている現象のことである
この虚偽とはこれは大変なことである
そしてこの観察者の虚偽の状態を正しく虚偽と見ていることが観察者ではない観照者の誕生ではないか
平たく言うと私とは自我でありロボットだと自覚することであろう
この私とは私ではなく「私だと言う偽物だ」と自覚することであろう
では
この次の段階であると言われていることである「虚偽を虚偽と見る事の中に真理がある」とは何んだろうか
真理とは虚偽を虚偽と見る事の中にあると言われていることとは何か
虚偽すなわち見る者と見られるものとは一つであるのにマトリックス・時間・思考が作動して分離している
ように見せかけている
このことを正見しているなかに真理があると言うことであろう
この状態こそ観察者ではない観照者の状態なのであろう
主体と客体は一つであるにもかかわらず、主体と客体が分離しているように思わせるという聖なる催眠が起こ
っていることを見破っているときに真理があると言うことである、これが観照者である
そして更に観照者が観照者を観照するとき
(何故ならこの時とは、時間が停止した今という次元であり、場所とはあらゆるここであり、今とは全ての時である、この今では思考は既に停止しているのであり観察というマインドの動きはなく観照という「思考が存在していない見る事」が発生しているのではないだろうかと推測している)
そのときこそ見る私と対象の私やあなたが共に一つであるということが起こるのではないか
それを道元は自己及び他己の脱落と言っている、「自己及び他己の身心の脱落」である
見る私と、見られる対象が共に脱落するのであろう
主体と客体という主客分離と区別という虚偽を正見している観照者を観照していることの中に
「見るものは見られるものである」ではないと思ったりするその分離を直視している観照者が
観照者を観照していることの中に
その直視の中に真理が起こると言われる
そして真理は身心からの解放をもたらす、マトリックスからの解放をもたらすに違いないと思われる
身体と心の脱落すなわち、見る主体と見られる対象の脱落がこの解放であると言われている
覚者方はそれを
見る者と見られるものという分離区別と言う錯覚が落ちたとき
この身体(各種身体)は姿を消し、従ってこの身体を自分だと思っていた想念である自我も消失し
この身体を自分だと信じていた想念が起こしていた世界も消える去るという事を述べておられる
この自分もそしてこの自分が投影していた世界もマトリックスであったと言うこと
実際は身体もその身体を自己だと思っている想念・私も、
そしてその自我という想念が作りだしていた世界も非実在であり
存在していなかったという事がハッキリと判明すると言うことなのであろう
この状態こそが観照者が観照者を観照していることであると思われる
主体と客体の分離は嘘だったのである
自己も身体も世界も嘘であったのである、これらは虚偽であったということなのであろう
このとき、この今の中には自己と云う自我がいないのであろう
だから
虚偽を虚偽と見る事の中に真理があるの真理とは
自己も身体も世界も無かったと云うことの真理である、
これが色即是空であり、次の空即是色へと続いていくのであろうか
そして最後に「真理を真理と見ること」と言われていることへと続く
これは道元が言う身心脱落から更に一歩進んだ脱落身心である
これがクリシュナムルティーやラマナ・マハリシがたの「世界が私である」との言明となるのであろう
そして、これがキリストの救済であることであろう
このとき世界や自己や身体が消え去ってただ一つなるものがただ一つなるものを観照している状態であるとき
世界や自己や身体の救済が起こるのであろうか
禅の十牛図のように、全く脱落した身心が、さらにこの仮象に働き掛ける
これが色即是空の次の空即是色であると推測される
ここから先のことは推測することは不能であり、言葉や思考やマインドである時空間の認識の限界を
超えている
思考もマインドも停止し終焉しているからである
風を手で捕まえることは出来ないのである、至高なるただ一つなるものを思考で捉えることは出来ない
そこは思考も時間もマインドも記憶も終焉している
実際にマインドを超えているただ一つなるものしかそれに触れることは出来ない
それこそが最高の真理であること
すなわちこれが「見るものは見られるものである」である
これが同調(アチューメント)の次元に突入することである
万物が一体であったことが直知されることという究極が起こるように
このことが起こるべく起こるのであろう