第1想念を拒絶しよう(だから、ただただ在ろう、ただただ見よう、ただただ聞こう)
このただ見ること,ただ聴くことを、実践する前提として
以下のことを整理しておく必要がある
通常これら@〜Cは、一緒にされ、同じ意識と思われていることだが
全く、違うことなのだ
@「或る状況、起きていること」:
今朝寝ていたら、近所の犬がけたたましく吠えている、
(自分にやってきていること、起きている外部だと認識されている出来事、運命、肉体、家族、会社、
あらゆる出会い、別れ、病気、健康、経済状況、仕事の状況など)
そしてその情報が私の聴覚を通じて、脳に届く
A「頭脳の条件付けからの反応」:
条件付けられた脳が反応し、「こんな朝早くからなんてうるさいんだろう」と云って
或る条件付けられた思考と感情と想念というものが、瞬間的に反応される
これが条件付けられている頭脳と記憶からの条件付けられている反応である
通常は、これを自分の反応だと勘違いするが、これは頭脳や蓄積されたワサナや記憶からの反応であり
自動的に起きてくるのであって、自分にやってくる思考や感情や想念である
そして
B「第1想念のありよう」:
ここが一番重要なことであるが、これこそが自我(エゴ)の行動であり、錯覚である
さて、その頭脳からのアウトプットの思考と感情と想念を受けて
第1想念である自我(エゴ)である私は
このように思い始める
「そんな風に犬の事を思ってはいけないのだ、これは、ただただ愛情を持って、聞かなければいけない
のだ」などと
そのように自分自身に対して自分を繕い、より良くなろうとし、このように自分に云い聞かせ、
もっとより良い自分に、愛情深い自分で有ろうとして瞑想などを始める
しかし
C「観照者」:
自分の真の私である「観照者」は「意識の座」そのものであって、現在の私にとっては未知なるものである
全ての知覚も、現在意識も、この「意識の座」があるからこそ、知覚し、意識できるのに
それを錯覚して、第1想念のみが知覚し、意識していると思いこんでしまうことに最大の問題がある
けれども、この「意識の座」自体は未知なるものであるので、この現在の顕在意識ではその観照者を
知覚し、意識することが出来ない
観照者の知覚と意識は、それは起こらなければならない、この現在の顕在意識が静まり、沈黙したときに
繋がる可能性が生まれる
これは、この観照者の意識とは、既知である現在意識レベルのBである第1想念や、Aの頭脳の条件付けの
反応ではないので、この顕在意識では意識することが出来ない、ということだ
Bの第1想念が沈黙し、停止してCの観照者に繋がることが起これば
未知なるものが既知なるものとなり、そのときABCは繋がる
そのとき観照者の意識が顕在し、現在意識となる
そう言うわけであるので、この状況をよく調べてみると
自分という自我(エゴ)にとっての自由意志とは何か
この自我(エゴ)である自分に出来ることとは何か
それは
「Bの第1想念のありよう」しか、選択肢が無いことが分かる
Bの第1想念である自我(エゴ)は自分が自由意志を持って、行為していると思っているが、行為という
結果であるものは、実際には第1想念である自我(エゴ)に関係なく起きており、自分である自我(エゴ)
にとっては、どのような態度をとるか、ということだけが出来ることである
@「或る状況、起きていること」などの出来事とは
即ち起きている状況や、やってきている肉体の条件、そして環境や出来事は、自分にとって起こっていること
でありやってきていることである
この肉体も、この環境も、この状況も、この出来事も
起こるように起きているのであって
自我(エゴ)は関与していない、自分が起こしていると錯覚しているだけで
起こしているのは、真我である根源が肉体を通じて起こしているのだ
これらは
根源者の宇宙という出来事の中でのプログラムされたストーリーであり
個人の人格は、その無限とも云うべきジグソーパズルの一つのピース(しかしその一つのピースがかけていた
ならば全体は完成しない)であり、宇宙という根源者のストーリーが私たちを通じては上演されていくのだ
無限の多くのストーリーが、決まったように、決められて上映されており
私たちにとっては、それは単に起こることであるが、これを自我(エゴ)は自分の人生と勘違いしている
これは聖なる出来事とも言えるし、
究極に於いては、本当は私たちが見ているような、出来事ではないかもしれない
私たちが見ているこの世界と宇宙は、実際にはこの起こっていると思われる、肉体と世界の出来事自体ではなく
それをAによって、特定の錯覚が与えられ、その結果Bによって自我(エゴ)が勝手に解釈しているに過ぎない
肉体の状況も、そしてそれが辿る人生も
回りで起きている出来事も、運命、出会い、結婚、出産、嫌なこと、嬉しいこと、病気、死亡、回復、奇跡
それら全ては
全ては聖なる出来事として、本当は起きているのを自我(エゴ)が間違って解釈しているのだ
これらは宇宙の物語として、起きるように起きており、第一想念である自我(エゴ)には関わらないこと
であるのに
自我(エゴ)は私が行為していると錯覚し、私が聴き、私が話し、私が存在していると思っている
ではA「頭脳の条件付けからの反応」は
これも@の出来事が行われるように、根源によって条件付けられていることである
このAの条件反応は何処から起きているのか
即ち、この肉体の、この環境の、この状況の、この出来事に対する、反応は何処から起きているのか
これは
頭脳の条件付けから、そして記憶の条件付けから、その条件付けられた頭脳の記憶から、即座に反応が
起きている
そして
一瞬後に
その反応の後に
第一想念である自我(エゴ)からの行動が起こる
非難と批判と同一化が起こる
たとえば何か美しい者を見たとする
その、視覚に対するAの条件反応は
頭脳と記憶(多くのレベルと身体がある)からの反応であり
即座に、その条件付けと記憶のレベルに従い
A:単純に感動する
B:欲望が生じて自分の独占したいという気持ちで覆われる
C:反応しない
と言うことが起こるが、これらの反応は意識に於いては、思考と感情と想念であり
この反応は自由意志でなんとできるのだと、第1想念である自我(エゴ)は考えるが
この反応は、根源によって、引き起こされていることであり
この内面の反応も、引き起こされているに過ぎない
自分という自我(エゴ)にやってきていることに過ぎないのだ
これは
自我(エゴ)にとってはどうにかできることではないのに
これらのことが、第1想念という自我(エゴ)によって、知覚し認識されると
自分の感情であり、自分の思考であり、自分の反応であり
自分が行為している、自分が自由意志でしているのだと錯覚するのだ
その頭脳の条件反応は、ただ単純に起こっていることだ
しかし
そこから自我(エゴ)の作用が働く
「いや、これらの事は恥ずかしいことだ」
「こんな、恐ろしい事を考えるなんて」
「この内面を良くするにはどうしたらいいのか、探求しなくては」
「自分が覚醒して、内面が変わらなければ」
「愛深くならなければ」
「自分は良くならなければ」などなど
いずれにしても
この自我(エゴ)はこのやってきて知覚、認識しているものを
非難し、判断し、ラベルを付け、整理し
逃げようとし、避けようとする、又は逃げる手段として自己同一視する
そして
良くなろうとする、又は良くなるように努力し、瞑想したり、ワークしたり、祈ったり講習会に行ったりする
しかし
その中核こそ自我(エゴ)であるものそのものの作用であり行動に過ぎないのだ
この自我(エゴ)という想念であり根本の連続し、持続している、輪廻転生している
本体である記憶の真の姿はなにか
それは「〜なる」という事である
良くなること、同一化すること、悟りを開くこと、探求すること、神と合一しようとすること、自分が真我になろうとすること
それは、全て「時間」の過程であるとおもわれる
記憶に過ぎない過去という時間は現在にいることが出来ないので未来に投影して
未来に標準を合わせようとするのだ
そしてこう言うのだ、「将来は良くなる」、「進化する」、「進歩する」と
それはまた単なる言葉の過程でもある
この自我(エゴ)という記憶の固まりのマインドは、言葉を超えることが出来ない、真に「在る」ことができない
今という時間を超えている「在ること」を把握できない
無限という空間をこえている「在るもの」を把握できない
それは非分離性、非二元性であり全体性なのだ
やっと本題のテーマにたどり着くことができた
だから、このマインドである自我(エゴ)の本性と同一化してはいけない
判断してはいけない
非難してはいけない
逃避してはいけない
選択してはいけない
同一化してはいけない
「〜なる」「〜する」に巻き込まれてはいけない
時間の過程である「〜なる」を拒絶しよう
自分が行為者であると錯覚する「〜する」を拒絶しよう
「〜なる」こともない、わたしはただ在るのであるから「〜なる」を拒絶しよう
「〜する」こともない、行為はなく、それは起きていることであり、私はただ在るのであるから「〜する」を拒絶しよう
第1想念を拒絶しよう、だから、ただただ在ろう、ただただ見よう、ただただ聞こう
神になると探求することは自我(エゴ)の働きだ、本当はその必要はない、既に在るのだから
良くなろうとすることは時間が起こしている、それは自我(エゴ)の働きだ、本当はその必要はない、既に在るのだから
真我を実現しようとすることは、無明であるマインドが起こしているのだ、本当はその必要はない、既に在るのだから
そう言うわけで
その「在る」こと中で
極度に研ぎ澄まされた、受動的凝視の注意の中でただ、在るとき
その中で、静かに、沈黙して耳を傾けるとき
ただただ在るとき
ただただ見るとき
ただただ聞くとき
その中に、歓喜と平安と愛であるもの
完全なる非二元性であり至聖なるものが、そこに姿を現している
と云われております