親が子に語る人生とは、生きるとは




縁あってこうして私達の子供として誕生してきた魂である我が子に願うこと

何かの多くの縁があってこうして私達を親として選んだにはそれなりの理由があったに違いない

この子ども達には多くの出来事が待ち受けているに違いない
思いがけない多くの出来事が待ち受けているに違いない
嵐が心の中を吹き荒れ
会ったこともないような恐ろしい怪物とも出会わなければならないだろう

嫉妬、憎しみ、殺意、疎外感、衝動、蔑視、相手への嫌がらせ
渦巻く欲望、欲求不満、自己関心、恐怖、不安、希望、願望、絶望、憎しみ、そして悲しみ、将来への不安

これらはすべて
私の中にあるものだ

しかしよく見ると

「それらは私そのものである」

さらに熟考すると
またこのように言えることが出来る

「私というこの個人・人格というものは、
逆にそれらが作ったものであり
それらからの創作物である」

だから
それらは
本当の私なのだろうか
私という存在を装っているのではないのだろうか
私の意識に「私」として登場しているだけなのではないだろうか

だから
どうか本当の自分を見つけて欲しい
自分自身とは本当は何か
何が本当の私なのか
私とは本当は何か
私とは誰か

この、このことが、
このことの悩みが、
このこと質問が、
このことの疑問が
あなたの心の中に強烈に生まれて欲しい
このことの悩みで君の心が占領されて欲しい
一体、私とは何か
この私とは誰か、と


人生には多くの出来事がやってくるだろう
恋愛も、出会いも、別れも
幸運も、不運も
成功も、失敗も、
裕福になることも、貧乏になることも
一番になることも、そしてビリになることも、中間であることも
認められることも、認められず無視されることも
有名になることも、無名で終わることも
受かることも、受からないことも
好かれることも、嫌われることも
愛されることも、愛されないことも
健康であること、病気であること
健康で長生きすること、若くして突然不幸で死ぬこと

しかし
これらのことに関心が集まり、焦点が合うことは、私達の人生なのだろうか
これらに一喜一憂しそれに振り回されることが私達の人生なのだろうか

これらのうちで自分にとって都合の良いことだけが起きるよう祈ったり、願ったり、神を利用したり、占ったり、
能力を使ったりすることが私達の人生なのであろうか


何故
愛されること、認められること、有名になること、受かること、裕福になること、好かれること、
健康であること、幸運であること、願望が成就されることを、願うのか

何故か

何故願うのか、
また願っているのは誰か

これを考える君であって欲しい、
この質問は非常に大切なのだ
これを願っているのはあなたなのだろうか、君なのだろうか、私なのだろうか

これらの失敗や成功に関心が移り、成功をこれを願うことによって、
一番大切なものが失われてしまうことに気がついて欲しい

これを願うこと、これらに焦点が合うことによって、
一番大切なことから焦点がそらされてしまうのだ
一番大切なことは
君自身に出会うことではないか

君に出会うために
欠かせないことは
一体何か
それは
自己観察
そして自己想起なのではないだろうか

私が心配しているのは君が
これらのことの事に関心と焦点が行かないことだ、
自己関心と自己想起に焦点が合うことがひつような事なのだ

だから君たちは自分にとっての良いことは決して本当の意味で
自分にとって良いことでも悪いことでもないことを理解して欲しい
それらは
君にとっての関心事ではない
世界の富と権勢を力を得たところで、健康であらゆる能力を持って生き続けたところで
自己認識と自己想起
私は誰かの解答が得られなければ、それは無に等しいと言うことを理解して欲しい

それらの成功などの願望の成就を求めているものは誰か
それらの成功などの願望の成就に焦点があって、それを叶えるものは誰か
それらの成功などの願望の成就に焦点が合うこと自体が

私達の道ではない、これは人生ではない
人生を無駄にしてはいけない

それらの成功を願うものは誰か
誰が願っているのか

真の私はそれを願うだろうか
または
真の私は願うことをするだろうか
それを願っているところの私とは一体誰か、それは私であるのだろうか

ニサルガダッタ・マハラジは言う
私達は行為者ではない
私達が知覚するものは全て私ではない
私達が知覚している「私」は全て私ではないと
知覚するということそれ自体が私ではないことを示していると
知覚する、認識する、体験すると言うこと自体が
分離性と二元性を示している
その
知覚する、認識する、体験すると言うこと自体が主体と客体の分離、
一つでない私の存在を前提にしている、分離した個人という幻想の人格を前提にしているのだ

人生における全ての成功と失敗に一喜一憂している私達はマインドが作った私達だ
そしてそのマインドの私達は本当の真の私達によって観照されているのだと言う事実を見つけることこそが
本当の人生なのだ
これが生きると言うこと

君の人生にはあらゆること、失敗も成功も、幸運も不運も起こるであろう
しかし
そこには君はいない
誰かが君という個人の人格を装って人生のゲームを演じているのだ

そこでの、そこで一喜一憂している君という個人の人格は、真の君ではない
ある大きなマインドが君という肉体を使って、
巨大な映画を映写しているのだ
そこの登場者は君ではない
それによって一喜一憂してはいけない

それらの成功も失敗も起きる
ただ起きる
そこに君は関与していない
そこでの個人の人格はその起きていることが作り出した君を、君は自分自身と錯覚しているのだ

20世紀のイギリスの覚者であるダグラス・ハーディングはこの点について
このように的確に述べています

「時には私達の個人的計画とおりに物事がうまくいかない事があり、
私達は失望します。

もし物事を変えることができないなら、行うべきやり方は
結果を手放し、与えられていることを受けいれることが含まれてます。

自分の本当の姿を見ることは、

起こっていることは源泉からやってくることであり、信頼することが出来る

という認識へと導きます。

困難なことは、私達の自己は真我が知っていることを知ることが出来ず、
それゆえ、私達は真我を信頼するために、信念の跳躍をすることが必要であると言うことです。

私達の人間の知と専門知識は

私達の本当の姿の(未知)に道をゆずらなければならないのです。
ー略ー
起こっていることを完全に歓迎することに変わるとき、

平和と喜びがあります。

与えられていることは自分の本質が現象化したことです。

ですから私達の個人的意思は、
私達の本質の意思と提携し、現在の瞬間に象徴化されています。

不安、心配、疑いは安心、平和、自信へと変わります。
(注:クリシュナムルティーは更に秩序が訪れるとも言っています)」

そしてさらにそれの延長線上に
ダグラス・ハーディングは言います

「無であれば、頑張ることも守るべきこともありません。

あなたは自分自身から解放されているのです。

あなたが一体化する全ての様々な物事の底流にあるものは、

変化せず、破壊できないあなた自身の〈中心〉ー存在です」

愛する私達の子ども達よどうか

一緒にこの学びの輪に入って欲しい

そして

この輪廻を超える真の現実世界に入ってもらいたい

愛を込めて






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