雑念




雑念を観ている者とは雑念それ自体であると言われている

雑念を観察している者とは雑念それ自体である

そしてその雑念を観察したりして、雑念を解消し何とかしなければ、思考を停止しなければなどと思っているわけだ

雑念を何とかしようとしているものこそが雑念であり

雑念を鎮めようとしているものこそが雑念であると

雑念を認識しているものが認識されている雑念である

認識しているものは認識されているものだ、

認識されているものは認識しているものである

雑念が認識されていると言うことは,雑念が自らを分離して主体・観察者を作りだし

そして自らを主体と対象に分離し、そのようにしてから瞑想などをして雑念を解消しようとしているのである

この雑念を消滅させるために観察している私とは雑念そのものである訳だ

雑念の観察者は、その心の中の雑念とは自分ではなく自分の観察している対象であると思っているが

そう思い雑念を対象化していることが雑念の働きそのものである、其れが雑念である主体、即ち私と言うもののしている

働きである

雑念こそが自らを対象と捉えて雑念と認識し、その雑念を体験している主体であるからである

なのでその雑念は自ら(雑念)から逃れるために、又は解消するために色々と手を変え品を変えて

雑念を解消するために内面の修行、思考による思考の観察などをするのである

しかしこの雑念を観察しているものこそが雑念そのものなのである


観察されるものは観察しているものであり

観察しているものとは観察されているものであると

観ている者は観られている者であると言われている

主体とは客体そのものであり

外部は内部であり、内部は外部だと、観察者も観察されるものもともに映像であると

その知覚され認識されている対象である外部とは、実はその対象自体が生み出している内部といわれているものだと


その瞑想中に発見される自我とその自我の雑念とは、

そして、その自我と雑念を観察している観察者とは

この雑念の観察者こそが観察されている対象である雑念であり、この雑念こそ自我であり観察者されるものである

世界と客観宇宙を成立たらしめているのはこの分離である、観察者と観察されるものの二元である

この分離二元が観る者と観られるものという主観内部と客観宇宙を、「今」を分割して過去現在未来に

そして「此処」であるものを分割してこれとあれという距離を生み出したのだと書かれている

これが外部と内部に分離して、世界や肉体や出来事を脳内から投影している

この二元・時間が「私・自己」と主張しているところの客体と分離した自己意識を発生させているのだ

そして、この分離と非分離が(マインドと気づきが)接触しているのが頭脳なのだ

非分離が数々の過程を経過して肉体内の頭脳で接触したのだ

(この辺のことをゲリーボーネル風に言えば、この肉体意識と頭脳意識であるダイヤードと言われているものが現象界に
於いて自らの進化のために、真我から来ているトライアード・魂といわれているものと頭脳内で接触し、そのトライアードが
それと接触の結果、素質的可能性をもっているものとして、このダイヤードの進化を促進する目的の為に「自我という記憶」
が発生したと言うことであろうか。何故に自然は人体に於いて個我やエゴという人格を創造したのかという理由も此処にある
宇宙は人体や頭脳の進化のためにはこの個我・自我を媒体として必要なので創造したのではないだろうか
この「自我という記憶」が輪廻している実体であり、この「自我という記憶」という実体が輪廻というプロセスを持続させ
維持するためにはなくてはならない必要素材なのである
その「自我という記憶」はダイヤードではなくトライアードにある、その「自我の記憶」とは魂の想念体なのだ
ダイヤードの方は「自我という記憶」とともに7回生に渡って同じ血統に転生するときトライアードの波動に同調できる
様になり、「自我という記憶」とダイアードという肉体頭脳意識がトライアードという魂のもつ波動と共振できる状態に
までに進化し、その時自我もダイヤードも、魂というトライアードの為の「中空の竹」という状態に成ることが出来ると言
われている
この「中空の竹」とはトライアードの現象界顕現のための窓としての役目を「自我という記憶」とダイヤードが共に果たせ
るようになった状態のことを言うのである。是は三体整合とか、三体の整列とかいわれていることだ
しかもそのトライアードは現象界に接触することで自らをグループに分霊又は分魂し、さらにそのグループも数多くの
分霊又は分魂して頭脳内に来ている、それは個にして全なのである、それは丁度一つの細胞が器官を形成し、
この器官の集まりが一つの人体を創っているようなものである。
全なるひとつであるものであるけど、個としてもあるように見えているのがこの現象界における自我を支えて
いる「見守るもの・魂」である役目であるのだろうか)


そしてその結果

思考・記憶は自分を肉体だと思い込み、

その肉体との同一視知覚が世界を生みだし(認知し)、カルマ運命を提供される場を生み出した(プログラムが働いて)、

肉体との同一視知覚が(肉体が私だという錯覚の共通観念が)脳を経由して対象である客観世界・客観宇宙を生み出して

いると言われているのだ


世界と出来事と運命と社会と宇宙とを外部に見ている者とは肉体の頭脳と同一視しているマインドというものだ、

それが頭脳を経由して内部と外部を認識しているだけだ

それが肉体頭脳を経由して世界を外部に認識している、内部にはそれを分離して見ている観察者を生み出している

ではこの肉体・頭脳を使い、マインドを使って世界を投影し認識しているものとは誰か


それはこの条件付けられているプログラム設計図であり、内部も外部も其れによって支配されコントロールされている

輪廻させられている

その舞台の主役は私「記憶・自我」である

この肉体・運命を投影し、内部と外部をコントロールしているものはこのプログラム設計図ではないだろうか

この設計図が肉体と頭脳をプログラムにしたがって機能させているのではないだろうか

カルマと出来事と運命を遺伝子を使用してコントロールしているのではないだろうか

頭脳を使い自我を使用して、客観世界を投影し、現象世界を維持しているものとはこの条件付けをしている設計図と言われ

ているものではないだろうか

ではさらに、この「○○ゆ○」という条件付けられており頭脳をコントロールしている設計図を観察しているものとは誰か
(このプログラムである設計図に従って諸身体の成果の体、黄金の霊体も形成されるのではないか?)

このプログラム設計図を見ているものは自我という記憶である、しかしまたその「自我という記憶」も又同時にそのプログラム

によって生み出された者でもある



真我からの流れが観照者・見守る者(主体と客体に分離できない I AM)となり

その観照者が分離した次元に接触するためにグループソウルやツインソウルと言われている魂を自らが分魂して生み出し


そしてその魂が肉体と諸身体の頭脳に接触したために自我と言われる記憶の蓄積が始まったのだ

しかしその頭脳には「○○ゆ○」というプログラムが存在している

この自我は自らが消滅することによって、魂の奥の光りが肉体と頭脳と「その成果体」と接触し共振する事によって

それを創造した意志に協働しなければならないといわれており、其れこそが私達自我の作られたる目的でもあるので

はないか

そしてこの消滅すべき自我こそがそのプログラムの一部でもあるのではないか

この自我の役目とはプログラムによって自らが消滅することによって魂の大元の非分離とこの接触している肉体と頭脳とを

共振させることである、そして創造の意志に協働して「黄金の霊体」を作ることである

自我は透明となることによってパイプとなり、魂そして観照者ひいては真我の光りを接触している肉体と頭脳とその成果体

に共振させることだ、其れこそがこの自我の作られた目的でもある


その時には結果であるものは原因であるものとなることだろう、このときプログラムは役目を終えて消えていることであろう

と言われている


時間である肉体や頭脳や「成果体」を時間でない「今」に共振させることが愛なのではないか

その為には、そこの中間にいる私達自我が中空の筒となって、それらを共振させること、

其れが私達自我の作られた目的である


その為にはこの自我を成立させている座において観察者を観察するものなくして観照することが求められる

其れは観察者とは観察されるものであるとを照見することを

マインドの次元でも良いから始めることであると教えられている、

観察者を観照している『無限遠点である観察子』が見守る観照者を誕生させると言われている

マインドである観察者を観照している事が見守る観照者を誕生させるのだと教えられている

だから始めに観察者(魂が生み出した観念が観察者)が生み出した自我(観察者自身)を見なければならない

この自我という記憶を見ているものは観察者である

この観察者とは観照者の一部であるといわれているグループソウルとかツインソウルが生み出したものでもある

この観察者とは観照者である見守る者が現象界と接触するために観照者が分魂してグループソウルとかツインソウルとかを

経由して生み出されたものである

だからこの観照者が→ソウル→観察者→「自我という記憶」を生み出したのではないか

そして

この観察者は観察されるものであると見ているものは見守る者観照者であり、

そのように考え、思い信じているものは観察者自身ではあるけど、其れを観念していることではあっても

非常に大事なことだ、思考でもよいからそのように思いつづけることが見守るもの観照者と繋がっていくことだからである


この誕生した観照者は非対象であるので、見守る者観照者は見守るもの自体を見る事は出来ない、対象とされないからである

目は目を見ることは出来ない、目(純粋主体)は非対象であり対象とはならない、

其れは純粋な主体であり、分魂を生み出している観照者である

観察者を生み出したのは観照者がマインドとプログラムが接触した結果ではないだろうか








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