久保栄治の
 個人的思索・思想・背景
見るとは
自分を見ることとは…、自分を客体として、対象として見ることではなく。これらに気づいている真の主体を、対象としてではなく、気がつき、見ることが、自分を見ることだと思うのです。
このとき私は存在せず、無我であり、非自己そのものであるといわれます。この「見るものはみられるものである」こそ、非二元性であり、全体性であり、ワンネスの入口なのでしょうか。
気づきについて
気づきとはマインドの働きではなかった、真の意識そのものの働きであるといいます。気づきこそ私達を解放し、未知の地平が拓かれてくるのでしょうか。
意識とは
真の意識とは、通常私たちの使っている、マインドのことではなく、分けることのできないものであると聞きます。私たちである時間的、空間的認識の形式であるマインド思考では到達できないものであって、否定的にしか接近が出来ないのでしょう。
攪乱・自己認識の重要性
人生の中で攪乱されることによって、マインドの沈殿物が露わになるといわれますが。この発見される自己はマインドであることでしょう。自己でないものの発見が真我発見の道であるとニサルガダッタ・マハラジはいいます
逆説・否定的接近
ラマナの「真我の探求ー私は誰か」は、クリシュナムルティーと同じ逆説、否定的接近であります。真実の解放は肯定的ではなく「虚偽を虚偽と見ること、虚偽の中に真理を見ること、真理を真理と見ること」の中に発見されるのでしょう
条件付け
私は自由であると、自分は行為者であると、錯覚している人は、条件付けに気がついていない、といえるでしょう。条件付けからの解放が、自由の感覚をもたらすとラメッシは言います。
受動的凝視
じっと受動的に見つめていると、自らの素性とその苦悩を語り始めるものです…、クリシュナムルティーの言葉です。私を構成している多くの私(人格・ワサナ)は再体験されることを待っている、といいます。それは浄化であり。このプロセスは真我の道では必須で避けられませんのでしょうか。
プロセス・段階・次元
「何もしない・無為」、この段階へは直接は行けないといいます、幼稚園児がいきなり大学院へは行けないとおもいます。「DOING」の「良くなる」ことは、「良きこと」の否定であるとの、この非分離状態への無為は、まづ私達レベルでは「良きことをする」虚偽のレベルからスタートせざるを得ないでしょうか、真我の次元へは、プロセス・段階が必要でしょうか。
ワーク・生きる
生きていることは・ワークしていること、食べているときも、電話で話しているときも、仕事の打合せをしているときも、会議も、買い物をしているときも呼吸をしている、その呼吸と同じようにワークが必要だとおもいます、今これを読んでいるそのときもワークが、「私は誰か」の気づきは24時間の作業であるワークであるのでしょう。これなくて人生はないとおもいます。  最初に戻る
祈り
地球の人の全てが、苦しみから解放されますように、心からの望みが叶えられますように、そして何よりワンネスを悟りますように、真我を実現しますように、自分とはそもそも最初から幻想だったと正覚しますように
神について
神は真我であり、非二元性のなかでは分離していないといわれます、全てはひとつであり、一つの命、一つのからだとラマナ・マハリシは言います、宇宙と真我と神は分離していないと仰います。
思考の隙間とは
思考と思考との隙間の発見こそ、本当の実在と真実の発見、そして本当の意味で自己発見と自我の終焉のキッカケであると多くの悟りを開いた方は言われます。これ以外の全ての至高の神秘体験は第2義、第3義のことではないでしょうか。この発見こそ真の悟りであることでしょう。
分離・二元性
「自と他を分離することは、邪悪である」有名なクリシュナムルティーの言葉です。私とはこの分離が生み出したものだと言われます。真我とは非分離性であり、非二元性です。私達が自と他を別々に存在していると見ている限り、このステージである限り愛はあり得ません。
主体と客体
祈りは、誰がしているのでしょうか。誰が願っているのでしょうか。体験は誰がしているのでしょうか。誰が認識しているのでしょうか。想念、感情、思考、衝動、激情は誰に起きているのでしょうか。みるものはそれらのみられるもの存在を前提としている。観照者は観照されるものの存在が前提とされる、これらは分割できない。従って、それは主体は客体そのものであると彼らは同じように仰います。
真理は神のものか
真理は神のものでしょうか、真理はいかなるものも独占できないのだとおもいます。何故なら、いかなるものも真理そのものであるから、とおもいます、今こそ私達は宗教戦争の源である、この団体、組織、グループの違いを乗り越えられるよう努力したいです
神は客体として認識されるか
聖なるものは、私達の現在のレベルである認識、即ちこの二元性に、対象として姿を現すのでしょうか。又は、このマインドたる二元性の認識の対象として、現われるものは聖なるものなのでしょうか。実は、神は非二元性の中にのみ認識されるのだといわれます、すべてとして、全体として、一つとして。              最初に戻る
眠りから覚めるとは
三界の輪廻を通じて、眠りながら生まれ、眠りながら死ぬ。目が覚めること無いまま、自分の人生の行為者と錯覚しながら、必死にこの現象世界を眠ったまま輪廻転生している、と弘法大師は言われます。では目が覚めるとは一体どういう事なのでしょうか。
私は誰か
「私は誰か」という問いへの本当の答えは、想念の中には生じてきないといわれます。全ての想念が消え−−思考者自身さえもが消えていくのでしょう。
意識の座とは
私たちの現在意識の座はマインドであると思います、真の意識の中にある意識には、私達は今のところコンタクトできないといわれます。
自由意志の真相
私達は自由意志がない……とニサルガダッタ・マハラジは言われます。このことは自己の探求に乗り出していない人は間違った概念を持つとおもいますので、人に話すときは注意するようにしたいです、誤解しないように、歪曲して取る可能性が多いので注意します
感覚のスローダウンについて
思考の隙間の発見には、その前に感覚のスローダウンが必ず起きると言われています、特に時間の流れが止まる体験が起こると言われます
宇宙の真相・現象界の仕組み・次元の構成
何故、私達はいま巷に溢れている精神世界系の書籍からの情報でこれらのことを知りたがるのでしょうか、これを知ることで解放がもたらされるのでしょうか、それで世界に寄与できるのでしょうか、知ろうとしている私達は知識欲や支配欲というエゴに支配されているのではないでしょうか
チャクラへのはたらきかけについて
チャクラへの働きかけは自ずと起こると言われております、エゴの根源が発見されたとき、そのとき自動的にチャクラは、そのステージと共に開花されていくと言われています。それなくしてのチャクラの開花は危険であると指摘するのはラマナ・マハルシです、自我の終焉でない場合はエゴの持つ最大の武器となる可能性があると言われます
宇宙のエルダーブラザーについて
宇宙における私たちは非常に幼稚な存在レベルなのでしょうか。地球人は他の宇宙の方々に導かれているとそうおもいます。
体験すること
私たちは真に体験はしているとはいえないとクリシュナムルティーは言います、常にマインドが介入していると指摘されておられます。私達は眠ったまま世界を見ている、その中で生きていると繰り返し指摘されています。
超努力について
薬物や波動機械やディクシャによって私達はエゴの超越である「私は誰か」に到達するのでしょうか、実生活の中での気づきの中で、ただ一人失われることなく「私は誰か」のワークが、超努力のみが、自分に引き起こす、と上江洲義秀先生は言われます
ディクシャはどのようになっているのか
ディクシャの働きはどのようにして私たちに作用を及ぼすのでしょうか。
ブラザーとのコンタクトについて
宇宙のエルダーブラザーとのコンタクトとは何でしょうか、どうして私達は直接コンタクトできないのでしょうか。
目覚めのプロセス
私は眠っている。夢から覚めてはいない、眠ったまま輪廻転生という夢を見ていると上江洲義秀先生は言われます。真我に覚醒し、夢から覚めた多くの方々のプロセスは、百人百様であるが共通しているのは、夢から醒めたら、主体と客体は分離しておらず、全体であった、自と他は存在せず、一つだったということであると口を揃えて言われております。
瞑想とは
久保栄治自身は瞑想より、頭のマインドの理解で歩んできた一般人なのです。私自身は瞑想は初歩で、先覚者が正しい瞑想の道を指し示しているのを知識で学んでいるだけです、恥ずかしながら体験はありません。
久保栄治が尊敬する方々
私はどこにも所属しておりません、団体には一切属しません、何故ならこの道は一人で歩むものだからだとおもいます、宗教と信仰の束縛から解放されなければ自由はない。と同時に「自分は一番正しいと思っている」人たち全てと手をつないで一緒に歩みたいのです。それが望みです
輪廻転生・肉体に転生する仕組み
この肉体が生まれることは人智を超え、私達を超えています、神聖なることです。しかし究極に至った人は生まれず、死なずといいます、この現象界のレベルから見た場合、私達は物質界に転生してきました。悟った人から見れば真我とひとつになっているので輪廻転生はない、魂も無いと言えます。             最初に戻る
観照者・魂について
純粋主体性即ち、真我の実現のあかつきでは、現象界は幻想で、観照者・魂は5つのコーシャ(身体)とともに存在しない、といいます、この観照者・魂が二元性の役割を担って、主客の分離を起こしたのでしょうか、自我の根源でしょうか。
自我について
いまの私は自我です。現在のこの意識の中身は自我です、想念です。二元性です。ラマナ・マハルシはこの自我を徹底的に探求しなさい、といいます。そしてその探求の中に、心も自我も存在していなかったことが明らかになると言います
隠れている私が、ある状況で突然出没し、それがあまりにも、今まで抱いていた自己イメージと違って、愕然とする事があります、しかし、それこそ私・マインドであり、現在意識に意識化し表面に上がった、わたしの本体、私・エゴそのもの、私だったとそう思われます。
想念
想念は我々の敵なのでしょうか。われわれが想念からまぬがれているとき、我々は生まれつき至福に満たされている。二つの想念の間にある空白がわれわれの本当の状態であり、それが実在の真我である。(ラマナ・マハルシより)
記憶とは
私たちは実際に実証的に進むべきだ、とおもいます。概論や観念でなく。カルキは頭脳は濾過器だともいいます、では濾過されるものはなんでしょうか、濾過したものを受け取るのは誰でしょうか。頭脳と記憶の考察は私たちを、想念体ではない「私は身体ではない」に導いてくれる。
グル
グルは私の中にある真我だといいます、そして真我はそのグルを、その時々の自分の進歩に合わせた形・姿をとって、私の前に現れるといいます。全てのものがグルであり、神であるという認識に至るまで、真我は私の前に様々なグルとして現れるでしょう
複数の自己
私とは複数であるといいます。複数の自己がこの私の正体であるといいます。複数の自己・人格は過去の、そして現在のワサナから成り立っている、といわれます。それを束ねている中核の自己などは存在しないといいます。私はワサナである複数の自己から成り立っている想念の束なのだといわれます。
この地球独自の神界・霊界・幽界・冥界について
高次に進化した宇宙の星々の方が、この地球を見ると、この地球の霊界などは、地球に独自のものだといいます。高次に進化しワンネスを実現し非二元性に住む方々には死ぬこともない、従って死後の世界も無い、生まれなかった方々だからだとのレベルにあるそうです。                                    最初に戻る
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一緒に自我を終焉させたいです。
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