ラマナ・マハルシのこの真我への道は
その前に、必須のこととして、わたしたちの多くのワサナの解消をあげておられます。
カルマとワサナが、この真我の訪れの前に解消していなければならないのです。
クリシュナムルティーのいう
受動的凝視により、自らの素性を明らかにしていく…このプロセスが始まらなければなりません。
多くのところでも、サムスカラシディーの浄化プロセスは必須の作業で、多くの潜在意識に積み重ねられている、蓄積されたマイナスの情念や感情などの再体験をしたものです。
それは主に幼児や胎児期での再体験やトラウマの解消、今回の人生での体験の浄化が主でしたが。
これから報告することは
私の場合、出現したのは現在のわたしではありませんでした。
(若しくは、私の現在意識に昇らない、私の潜在意識、又は私のマインドそのものの意識でしょうか)
私にもこの現象自体が、よく分からないのです、それとも全くそのプロセスではないかもしれません。
もしかすると、私の願望が引き起こしたのかもしれません。
しかし、一応半信半疑ながら報告しますと、それは
昨夜のことです。
突然真夜中に、私自身が全く想像もしていない、私とは思えない内面的な感情やら、その実際の深く深刻な思いがやってきました。
びっくりしました
直接、なんの前触れもなく、その意識の中身が
状況説明や年齢や性別に関係なく、その感情と情念の中身だけがやってきたのです。
「深い感情」そのものを自分として体験しました
その体験された中身は以下のようでした
……
苦です、苦悩です、苦悩呻吟です、苦そのものです、深い絶望です、悲しみです、切迫する無力感、闇です、苦しみです、深刻な状況です……。絶望の悩みが…、不安が…、全体を深く覆い迫っています…、とても書く言葉はありません。それら丸ごとです。
一体全体、誰がどうで、どこでかも分からないのですが
実感できるのです、その中身が深く共感しました。
その感情が直に伝わってきました。
これが数分の間感じられました。
その私の感情は現在の私ではありませんでした、私(複数)を構成する、或る一つの私が、突然に意識の表面に出てくれたのでしょうか。
それは苦そのもののようで
私(複数)の本質、私達とは苦そのものだと深くおもいました。
私は勿論、クリシュナムルティーの勉強をしておりましたから、これは彼の言う「受動的凝視のなかで現れる、自らの素性を明らかにするであろう」ところの私(複数)の実体ではないかと、直ぐに思いました。
またラマナ・マハルシや聖者達の言うワサナであると分かりました。
で
それで、しばらくその私(複数・ワサナ・人格)の中核を体験させて頂いたのです。
誰が、どこで、何を、という状況は全く分かりませんでしたが、人格の中身そのものでした。
そして
その私(複数・ワサナ・人格)の本当に苦しんでいる、感情や、内面の奥にある悲しみ、苦しみ、恐怖、不安、絶望、もの凄いどろどろした感覚そのものは、直接にじかに感情として感じました。
これは、現在の人格の私である久保栄治には考えられない、人格でした。感情でした。
(私には、このような絶望的な深い悲しみと苦しみを実感したことはこの人生ではありませんから。)
そして、それは、その人格の内面であり、内実でした、言葉にならない、表現できないほどの「苦」でした
私は、これはいい、体験できるいいチャンスなので、もっと体験したいと願い
それを招こうとした途端に、どこかへ消えていってしまいました。
その後1時間ぐらい、内面をいくら探しても出てこないのです。
その私(複数・ワサナ・人格)は突然やってきて、突然に消えました。
そしてそのとき感じたのですが
私の中にある
このワサナを一つ一つ再体験していく課程は、非常に大切である
ということでした。
深い「苦」を実感しているのに、もう一つの自分がそれを、非常に有り難いこと、貴重な出来事として、干渉しないで観照していました。
その「苦」に耳を傾けている状態でした。
さて
或る所では
私達の中にいる、多くの人格は
何百、何千とあり、それが私を構成している、といっておりました。
この現在意識に昇ってきて「私」と意識される人格は、1分に何回も入れ替わり
それらが全て
現在の私の意識では「私」個人の「ひとりの私」として認識されると言うことでした。
そう言うわけで
私は、そのうちの一人の内面そのものを味わいさせて頂いたことになります。
この体験を通して
その私(複数・ワサナ・人格)は「苦」そのものであると、深く感じました。
悲しみと
苦しみです。
この人生を表面的に生きて
多くのことを避けて、楽しく飾り立てていても
私達の、この中核であるマインドは「苦」そのものであること。
従って
私達の中身は
苦悩であり、深い慟哭の悲しみであり、無力感の漂う絶望と、闇。
憎しみの混じった不安、恐怖、迫り来る破壊などなど
今日感じさせて頂いた私(ワサナ)は
まったく現在の私の人格では考えられないし、存在を想像すら出来ないものでした。
私の顕在意識に、この私(ワサナ)が、いきなり、その内面を感じさせて頂いたことは有り難いことです。
滅多にありませんから。
(というより私があまりに鈍いので感じられていないのかもしれません)
さて
正覚した覚者の方々は
「私は世界である、私の中に全ての人類がいる、一人一人のその苦しみを感じている」と良く言われます。
私には自分自身の中の一人に出会っただけで、その苦しみが、もう言葉に出来ないほどの深刻で、絶望的なことをよく感じさせて頂きましたので、これが過去世からの積み重ねてきた、作り出してきた人格のワサナ全部でしたら、覚者の内面がどうなのか見当もつきません。
今日、一人のワサナを体験させて頂いて、驚いていたら 全世界とは一体どういうレベルでしょうか。
想像すら出来ません。
ところで
このワサナは、グノーシスや神秘派は下位のチャクラに
憑依し取り憑いている実体だ、ともいっていますが
私達の肉体に併存しているサイキック体のチャクラには
もの凄く多くのワサナや人格が憑依しているのでしょうね。
そして、更に
今生でも、また私は多くの人格やワサナを作り出しているわけです。
本当に、この三界には救いがありません。
マインドがいくら飾り立て、荘厳に仕立て上げ、この現象界を住みやすく立派にしたところで
このマインドの作り出す現象界の本質は変わりません。
なかみは本当に
「苦」です。
「悲しみ」です。
ですから
見ましょう
凝視しましょう
そして
離れましょう
私達のすすみゆくのは、この現象世界ではありません
この現象世界を成り立たせている根源
無
空
そのもの
真我
非二元性・全体性です
真実の完璧完全の世界です。
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