知識を何故持とうとするのだろうか、その動機はなにか、

マインドが、真理や宇宙の全てを情報として理解できるという錯覚をしているのではないのだろうか
自分が学校の授業のように、そのような高度のことを記憶の対象として、何かの知識や情報を得るように、至高の英知を認識できると間違っているのだ。

認識の主体であるこの私が、客体を自分以外の認識対象としてとらえている限り、本当の知識は有るのだろうか
主体と客体の分離状態のこの私が、正しく主体と客体を認識することは決して出来ないだろう

まず、この分離がやみ、全てが一つであることを、本当にハラのそこから、存在から分かったら、世界は全く違って見えるだろうし、本当の情報や本当の認識が、一つのなった分離のない状態から、おのづから与えられるだろう

分離し、認識対象を自分とは別の存在ととらえている、この状態ではあるがままをあるがままに見ていない、
そうだ、私は客体を正しく見ていない、何故なら自分とは別の分離した客体として感じているからだ。そしてわたしそのとき分離した自我である。
私は宇宙を正しく見ていない、時間を正しく見ていない、他の宇宙文明を正しく見ていない、いや見ることが出来ない、見る目そのものが私には無いのだ。自他分離の催眠から目覚めていない限りは。


そのような、このレベルの私に深遠な時間と空間を超越した宇宙の深遠な知識と情報が与えられたとしても、歪曲してしか、とらえられないだろう。
多くの情報が現在世界に溢れかえっている、多くのチャネラー達が提供する宇宙の、外宇宙の真実という事の真相の本が、暴露本が書店の本棚をにぎわしている、そしてそれを見た読者は、私は宇宙の真実を時間と空間を越えて、真相を知ったと思っている。

違うのだ、
分離している記憶システムや我々のレベルの認識では、真実は決して私に、知られることは無いのだ。
逆に言えば私が情報で得られることは、全て記憶を媒体としている、マインドを媒体にしているので、本当の姿ではない、真実ではない

私たちは、今いるこの三次元をも含めて、全てを歪曲してとらえているに違いない、認識そのものが問題であるからには、情報として与えられる全ての知識・情報など認識対象の全ては不確かで、部分的で、かつ完全に歪曲して私は認識するだろう。

ましてその認識対象が宇宙の根源的なことや次元を越えての時間空間の枠を越えることは、もっと我々の存在レベルでは認識できない、完全に駄目である、完全に間違って歪曲する。

なぜなら私の認識できる能力が、存在のレベルに完全に依拠しているからである。
私の存在のレベルが変わらなければ見ることは出来ない。理解は出来ない。知ることは出来ない。

自分のこのベース、このレベル、このステートが愛にあふれていないのなら、そのステージに合わせた、同じレベルの知識と情報が与えられ、得られるだろう、自尊心を伴い、私は知っているのだという錯覚を伴って。

従って、真実は書物から情報としてや、有る外部からマインドを通じて認識できることとしては与えられる事はない、それは内部から必ず、非自己の存在状態から分かり、認識されるのだとおもう。

だから、真我に至ること
真我とは愛であり英知である、ワンネスであり分離していない。
きっとここから見るこの三次元界も全く違うように見えるだろうし
自分の中と外が分離していないので、全ての宇宙はこの中に有ることだろうし、時間と空間を越えて宇宙は一つで、神とも分離してはいなことだろう

だから
認識するためには順番が違うのである
まず
この催眠から完全に醒めること

これである
このためには思考の隙間の発見しか方法はない
そこには
もはやマインドが作り出した、この認識の主体は存在しないだろう
認識の客体も存在しないだろう
そして
愛が、愛のみが有ることだろう
そして
この愛の中において全ては
自ら、明らかになり、英知が自ずから語り始めるだろう
自他の分離無く

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