アメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。
ファントム・セルフ
以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う?
ノリオ: 世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ: 唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ: そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ: 答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ: そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ: 実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ: 気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ。
ノリオ: だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う〜ん。分かったような分からないような...
ノリオ: 変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ: その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ: その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ: まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ: 本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ: 君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ: 僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった。
ノリオ: ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ: そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。
(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ: 君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ: 「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ: 僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ: そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ: そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ: 僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ: それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ: 永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ: 全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。
(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ: その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ: 死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ: 目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かに打つかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ: そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ: そうじゃない。〜のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ: 今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ: 「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ: 意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。
(中略)
最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。
ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の“Spiritual Enlightenment, The Damndest Thing”
という本。
アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ: 彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ: その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大量な目覚めの時期を迎えているように思うよ。
(後略)
2005/12/30
翻訳:静流
The Next Evolution
来るべき進化の形態
2006年3月収録
講師:久司典夫
以前にもご紹介したことのある久司典夫さんによる最近の講話から要点をご紹介します。順序は全く変えてあるうえ、講話にはないのですが、アメリカの文化になじみが少ない方もあるかと思い、多少の説明文も付け足してあります。
何年か前に「目覚め」の体験をしてから起きたことをいくつかお話します。あれからも引き続きトラックの運転を楽しみながら生活しています。
以前は運転しているとイライラすることが多かったものです。非常に若い頃から運転が好きで、普通自動車の免許に次いでタクシードライバーの免許を取ったのを皮切りに、様々な特殊自動車の免許もとり、運転は上手いと自負していましたので、普通の車を運転している人たちを「フォー・ウイーラー(四輪者族)」と呼んでちょっとバカにしていたのです。俺は「エイト・ウイーラーだ」。俺は「エイティーン・ウイーラーだ」、などと車輪の数が多いのを自慢するのがトラック運転手というものです。実際時間に追われて配達業をしていると、気が立って、ハイウェイでモタモタ走っている普通車の運転手には迷惑をかけられることも多く、それでイライラするのも当時はもっともな反応でした。
目覚めてから気づいたのは簡単な事実で、「着く時には着くし、着くまでは着かない」ということでした。イライラしようとしまいと、着くまでは着かないのです。それに気づいてからはもう心配したり、あせったりは全くなくなり、楽々と仕事をしています。
それはさておき、アメリカ全土、荷物を積んでは配達して回る仕事の間にもいろいろなことが起きます。
● ネブラスカ州のオマハで妻に電話をした際、ふと、庭に常緑樹を2本植えたいと思い、土産に持って帰ると言いました。「いいわね」とか何とか妻も言っていました。その時にはどこで何の樹を買うかは決めていなかったのです。ネズラスカで積んだ荷をペンシルバニアで下ろし、そこで積んだ荷をピッツバーグでと、次々に仕事して、ミズリーに着くと、荷主は常緑樹の苗木商でした。リストにある届け先に配達すると、数が余っていたのです。2本でした。今では家の庭に植わっています。
● 少年の頃出来た初めてのガールフレンドは9人兄弟で、彼女には小さい頃頭に怪我をして少し知恵が後退している妹がいました。その後他の男性と結婚した彼女とは引き続き家族ぐるみで付き合うようになりました。その彼女から運転中電話が入り、妹が32歳の若さで亡くなったと言うのです。泣いている彼女に葬式はどこで行われるのかと聞きますと、驚いて「出られるの」と言いました(訳注。アメリカは広いうえ、典夫さんはどこか遠くに出張中)。彼女は葬儀の場所はニューメキシコだと言いました。私は配達でニューメキシコへ向かって運転中でした(訳注。典夫さんの住まいは東海岸のノースカロライナ)
● テレビか何かで見た、世界平和の為に徒歩で世界を歩いているジョナサン・マイヤーという人に会いたいと思いました。それからふと、カンサスで会いたいと思ったのです。
数ヵ月後テキサスで大量の紙をトラックに積んだところ、重量オーバーだと分かりました。普段は断わるのに、その時ふと、まあいいかと思って引き受けてしまったのです。インターステイト・ハイウェイにはトラックの重量を測る検問所がところどころに設けてあるため、それを避けて運転するのは気骨が折れるのですが、それでも引き受けたのです。
トラック運転手同士は無線で連絡し合って助けますから、情報が入るとハイウェイを降りて迂回しました。最後の2ヵ所の検問所は夜遅くなっていたために閉まっていたので、そこを無事通過した後オクラホマ・シティのホテルに泊まり、翌朝早く出発。途中で検問しているという情報が入ったので、ハイウェイを降り、普通の道を走っていくうちに迷ってしまいました。私は普段道に迷うことなどありません。ところがその時にはなんと4回も間違ったターンをしてしまい、どこにいるのかと思っていたら、なんとジョナサン・マイヤーが道を歩いていたのが目に入りました。大喜びで車から飛び降り、ジョナサンに自己紹介し、激励しました。そこはカンサスでした。
● 1年ほど前南カリフォルニアから北カリフォルニアに届ける荷物を受け取りに行ったことがあります。ところが何かの手違いで荷物が用意できていなかったのです。その日は素晴らしい上天気で、カリフォルニアの景色を楽しもうと私はのんびりホテルにチェックインしました。そこへディスパッチセンターから衛星通信でカリフォルニア支局に緊急の配送指示が入ったとの知らせがありました。カリフォルニアのディスパッチャーはパニック状態で、とうてい間に合いそうもない緊急の配達があると言うのです。ハイウェイのどこかが土砂崩れで交通止めになっているそうです。
私がのんびり、「大丈夫、ちゃんと届けるから」と言うと、もうキャンキャン騒いで私の言うことなど聞かないのです。ノースカロライナ支局の係りなら私が引き受けたら必ず届けると知っているのですが、この係りは初めてのことで、信じないのです。
ともかく、丁度良い時に丁度良い場所に泊まっていたので、約束の期限より前に配達できました。
大方の解釈とは少し異なり、私は思考というものは川のように流れているものではなく、波状のような形態を取っていると見ています。一つの思考と次の思考との間には谷があり、谷の中途にわずかな隙間があります。その隙間は何分の1秒という短いものですが、何も思考が無い場所なのです。
何も思考がないところをじっと見つめていると、毛筋ほどの間隙が少しずつ広がっていき、数秒、数10分となっていきます。今では何時間も無思考の状態を体験することが出来るようになりました。どうして出来るのか不思議ですが、運転中にもそれが出来るのです。
思考の無いところにあるものは完全なる静寂と、比類なき喜びです。恐れというものが完全に不在となります。普段はいろいろと恐れはありますが、そこには無いのです。そこには自分というものとその自分が作っている歴史も存在しません。2回も結婚に失敗した心の傷も、事業に失敗したことも完全に消え去ってしまって、かわりにただ輝かしい幸せな世界だけがあるのです。
いわゆる集合意識というものも無く、「ただ一つの意識」しか無いのです。生物だけでなく、無機物も、そこにある机や椅子も全部がエネルギーで、そのエネルギーは知恵そのもので、ただ現象的に違う形態を取っているだけで、本質的には同じものなのです。たった一つの意識、それが全てなのです。
ギターを弾いている人の手にある一つの指が他の指より優れているなんて言ったら可笑しいでしょう?それと同じように、誰かが誰かより優れているとか、劣っているとか、そんなものは無いのです。みんな幻想なのです。自分というものが幻想であるのと同じように。
「これは私の所有物だ」と言うのも今では可笑しく感じます。自分が無い体験をすると価値観や今までのものの見方が根底からひっくり返ります。今まで演じてきた久司典夫はちょうどオペラの登場人物のようで、そこで泣いたり怒ったりしていました。『ファントム・オブ・ザ・オペラ』という劇にちなんで、幻想の自分をファントム・セルフと名づけました。
子供の頃に聞いたジョージ・オオサワの言葉を思い出します。
「人間の究極的過ちは傲慢(ごうまん)というもので、これは不治の病だ」
傲慢がファントム・セルフの正体です。
私は、人類は全体として今私の体験しているような新しい意識の状態へと向かっていると感じています。
2006/03/17
翻訳 菊池静流
http://www.iii.ne.jp/kikuchi/