神についての素晴らしい記述です
ナチュラルスピリット社はこのところ素晴らしい本を出しています
ラマナ・マハルシの「あるがままに」神の本質が掲載していましたので抜粋します
質問者:神と真我は別のものでしょうか
マハルシ:真我は神である。「私は在る」(I AM)が神である。もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはあり得ない。
現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。そのため、そこには分離という観念がある。この観念が去らねばならない。なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。
「私は在る」(I AM)が神の名前である
絶対的存在とはただ在るものである。それが真我である。それが神である。真我を知れば神を知る。実際神は真我以外の何ものでもない。
真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉が響き渡る。それが神の名前「私−私」である。「私」という感覚に注意をはらい、「私−私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛び込み、自我を破壊し去るだろう。
宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに限った真実である。賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である。個我を超えた真我には、他のどんな存在もありえない。
イーシュワラ、神、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。唯一、絶対的存在のみが実在である。それゆえ、世界だけではなく、自我だけではなく、人格神もまた非実在なのである。
もし個人が姿をもっているなら、主である真我、源でさえ一つの姿を以て現れるだろう。このように神は無数の名前を受け入れるが、真の無形の意識だけが本当の神である。
神の住処についてだが、彼はハート以外のどこにも住むことはない。自我によって生まれた「私は身体だ」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われている。ハートこそが神の王国だと知りなさい。
真我に気づいている人は宇宙の崩壊をも超越して解脱を得る。ならば、なぜはるかに賢く能力をもったイーシュワラにそうできないことがあろうか
シヴァやガナパティやブラフマンのような神々は、人間の視点から見れば存在している。つまり、あなたが個人的な自己を実在だと考えるなら、神々も存在する。ちょうど政府の行政運営の為に高官がいるように、創造者がいるのである。だが、真我の見地からすれば、これらの神々はすべて幻想であり、神々自身が実在の中に溶け去らねばならないのである。
ハートの中に他の想念が存在する間は、神についての想念も存在できる。全ての想念の破壊によって、神の想念さえも破壊された状態が、無念無想の想念であり、それこそが神の真の想念である。
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