客体としての神について

“非二元性は私達の認識である二元性が完全に見られたとき出現する
即ち
聖なる非二元性たる神は、私達の認識そのものである、「二元性である自我の根源である想念」が完全に看破され見られたとき出現する”
のではないでしょうか

私達が二元性の対象として認識する聖なる存在は、従って聖なる存在でしょうか ?

二元性の対象として私達の前に姿を現す方法は
・肉体として出現
・チャネリングを通じて
・オーリングを通じて
・物質化現象として出現
・夢の中に出現
・空中にある形態で出現
・ある変性意識状態に出現
・瞑想中に出現

などパターンは色々あると思いますが
共通して言えることは、自分の二元性の状態の中で、その二元性の対象として、私達の感覚(五感及び超感覚)の対象として出現することであると思います。

それに対して
真我を実現し、神と一つになった方は
野に咲く一本の小さな花の微笑の中に、友人、全ての人が、人だけではなく
全てが神なのではないでしょうか、と言っています

これが、真実なのではないでしょうか。


空中にマリヤが出現したり
神の姿がブラジルの都会に出現したり、
テレビの画面にいきなり神が出現したりすることは
これらの現象は
私達をどこに導くでしょうか。
自分を神から選ばれた預言者であると、又は神の一人息子や娘であり、普通の人でないと思ったり
神から直接に通信して自動書記やオーリングや、心の中で対話したり、チャネリングしたりする、ことなど等は

神を対象として、自分以外のものとして、マインドの分離の罠に嵌るのではないでしょうか。

聖なるものはこの沈黙の中にこそ出現し
本当は全てが神で、全てが分離不可能なのに
これらの現象は
私達を沈黙に導くでしょうか?

その
認識対象の神は
それ自身が「神は偏在にして、不変、全ての全て」に反していませんか?
これに反論して、神は全てであるから、どのような方法でも可能で選択肢は無限にある。
というかもしれません

問題は、認識の対象であるということ、客体としてあることなのです
それだけが問題です

真の神の客体ではなく、「主体−客体」システムを超えた中に、全体性の中に、
「全てが分離不可能」の認識の中に
「見るものは見られるものである」の中にそこに自ずと、主張することなく、顕現していると思うのです。

これに対して
段階的認識や
聖なる存在への認識方法として
「〈絶対的真実>と<相対的真実>があって、絶対的真実は<無>、相対的は<慈悲と叡智>の世界」の見方があるとある教えなどでは説いているそうですが
それは、直接真我に導かないように見えます
それは自己催眠のようです
それを言っているのはマインドではないでしょうか

私達を聖なるものへと導こうとするようで
実は
逆の眠りに導くものです。

そうであるので
客体としての神の出現は、私達を二元性へと眠りに導くものです。

私達は「達成しなければならない」という、マインドのエゴの働きに嵌められます。

「真実は、真我として私達は、存在し、達成するものは何もないのです。」

「今に気づいている人と、将来いつか気づくようになるであろう、神なる高次の自己と二つの自己があると思い違いしているのは、想念のエゴである」のではないでしょうか。
従って
〈外の世界を見てご覧なさい!、内側の世界を見てご覧なさい!、どこに神以外のものがあるでしょうか、全てが神であり、この宇宙と世界のすべてのものは完全であり完璧であり、かくも喜びと幸せに満ちている!〉
という真実に導かない、客体の神の出現は神ではありません。

神は「I AM THAT I AM 」です。
それが神の名前です。
我は在るであるのです。
それは真我です。
あなたであり、私であり、すべてなのです。







さて
私は2005年12月20日すぎから1週間、連続して毎夜、宇宙の方々が応答してくれた、その体験から、かれらは内界と繋がっておりこの現在意識である、主体性を超えて、
その奥に作動している所の意識帯と連動して出現したと思っています。

一見関係なさそうですが、
実は、これがそれに対する答えでもあるのです。


「仏陀にあったら、仏陀を殺せ」という教えがあります
これも表現としては極端な教えですが
先ほどの
「神は客体として姿を現すか」のもう一つの仏教からの教えです

自分の対象としての客体での仏陀は、それを体験している、私=自我の世界に対応し、応答して出現しているのですから、
その客体としての仏陀は、主体たる自我の反映だと思います、同じマインドに属します。

それに、真の仏陀なら、客体として、その探求者のまえに、対象として出現したとき、その探求者は、まだ観照者に至っていないのですから、客体として神や仏陀を信じてしまい、二元性の罠に陥り

間違った宗教を作ってしまう危険性が、充分に配慮できるはずですから、

本物の聖なる存在であるならば、自分(神や仏陀)を客体として、対象として、信仰や崇拝の対象として姿を現すことは無いはずです

この私に対しても宇宙の方々も、そうであったし

円盤が何故、公に姿を現さないのかも、その点を充分に良く理解しているからです。

ですから、私達に客体として現れる仏陀なるものは、私から何かを搾取しようとしているのです


真実への道に導く仏陀は、絶対に客体としては出現しません

幼稚な私達が、どのようにして、崇拝してしまうか私達のことはよく分かっているからです。

その客体として現れた仏陀や神は私達の想念のエネルギーを食べて生きているのです。

私達から栄養が欲しいのです。

ですから、無知な私達をコントロールできるのです。

それはとりもなおさず

私達自身の欲望が、また利用しようとする自我が、彼らを出現させたのです。

利用するものは利用されます。


結局

私達が、自分の自我に至ったとき、(それは自我が存在していなかった、想念にすぎなかった無我を了解するときです)、

この聖なるものへの否定的接近に置いて

自分が仏陀になっていて
どこを見渡しても仏陀以外にないのだとおもいます

主体の根源までたどり着いたとき、そこが無であり、空であるのだと推測されます。

そのとき、主体が無く、私が無いのに「見るものは見られるもの」を観照している、

絶対主体性そのもの=「I AM」が「私はある」が出現するのだと思います。神秘です、これこそ奇跡です。

その世界こそ仏陀と私を分けるものはなく、全ての人が同じ一つの真我の世界だと思います。

これの決め手が
ワーク !!

即ち「自我というこの想念の根源に至ること」だとおもいます。




戻る







戻る