分離・二元性
ニサルガダッタ・マハラジはいう
私でないものを私ではないと理解しなさい
それを私でないものというより
真我でないものと言う言い方に出来るなら
今の私にぴったり来る
この今の私とは二元性であり、
分離であり、
既知であり、
記憶であり、
その記憶が生み出した私であり、
葛藤であり、
苦悩であり、
悲しみなのであり、
恐怖であり、
暴力であり、
愛なきものであり、
欲望である
それらはこの私(人類全員同じ)の本質そのものであるとおもう
この私は二元性であり分離性であり
上記の内容であるから
この自分の体験も、経験も、知覚も、思考も、記憶も
すべて
非二元性ではない、
非分離性ではない、
「見るものはみられるもの」の状態ではない、
未知なるものではない、
ワンネスではない、
愛ではない、
一命一体ではない。
現在の私は真の主体ではない
真の私ではない
私ではない
現在の私は意識と無意識を支えているものではない
現在の私は観照者ではない
現在の私は愛ではない
現在の私は生命ではない
現在の私は歓喜ではない
現在の私はワンネスではない
現在の私は「見るものは見られるものである」ではない
現在の私は私ではない
私は私ではない
現在の私は
分離であり
二元性である
そしてその中身は上記の葛藤であり苦悩であり悲しみそのものなのだ
それは私ではない
私は未知なるものだ
私は真の主体だ
私は非二元性だ
私は非分離性だ
私は「見るものは見られるものである」である
私は個人ではない
私は全体である
私は主体を支える意識されない主体である
私は即時の理解である
私は命である
私は愛である
私は時間を超えている
私は存在である
私は全てであり、あなたであり、生きているものであり生きていないものでもある
私は一命一体である
と真我はいう
だが
しかし、ここでいま
現在の私は私ではない
と
そう思うこと自体が現在の私にとっては真実ではない
それはいまだ実現していないからだ
実現していないのに実現していると言うことは
虚偽であるのではないだろうか
従って
虚偽を虚偽と見ることが肝心だ
即ち
現在の私とは真の私ではないのに真の私だと思っているのだ
自分は体験したと
そう思うこと自体が虚偽なのだ
ただ
いまのところ
自分でない自分に感覚も知覚も、感情も、思考も占有されていて
正しく見れていないだけだ
いまのところ
自分でない自分の既知なるもの、記憶と条件付けに占有されて、
自分自身が自分にとっては未知なるものになっているだけだ
虚偽を虚偽と見よう
ハッキリと言おう
自分でないものは自分ではないと
私に知覚できる私は全て私ではないと
真実の私を信じるのだ
真実の私を求めるのだ
それが現在の私にとって
大切なことだ