クリシュナムルティーを専門に30年近くやってきましたので
「あるがままをあるがまま見る」
「見るものは見られるものである」が
精神世界では、よく違って捉えていることに愕然としました



正確に言えば
見ることは真我そのものの状態なのです
見る主体が存在していないのです
しかし
我々のステージはマインドの状態です、この私の実存している感覚がマインドの状態です、このステージだと(このマインドでは)見ることは出来ません。
しかし自己観察を続けることは出来るので、この観察を続ける内に

本当の意味で私は見ることが出来ないと言うことをマインド(自分)が気がつくのです

本当の見るというのは気づきです

気づきとはマインドを超えた意識です、大文字のマインド・非二元性そのものの意識なのです

このマインドによる自己観察を通じて、私達は自分の意識を覆い、自分そのものと思って認識している、各種の自我・人格(過去世・来世も含め)ワサナ・そして取り憑いている意識達、感情、概念、そして私達の設計図である条件付け、等
また眉間の処から流入する、想念帯からのマインドなど
それなどの全てが、それぞれ私は自分の意識そのものとして認識し
自分を構成しています

そして
それら自身がそのマインド(不安・恐怖・暴力)などを観察します、そしてそれこそが私自身であることを深く実感します

そして、
見られている自分はマインドが創りだしたものであり、見ている自分もそのマインドが
作り出していることを感じています

その両方とも真実の意識たる私ではないようです

私には私にあらゆる方法を使っても接近できません

現在の意識状態の使用する言語では同じ言葉に全く違う意味が附せられております

同じ私でもマインドが作っているこの現在の私と
この現在の私を成り立たせている意識そのものの私(非我・無我・真我)も同じ
私という言葉です

そのようであるので
このステージを見るのはマインドです、マインドがマインドを見ている状態はクリシュナムルティーのいう見るとは違います

それは「私」という単語の中で全く違う意味に使っているのと同じです。
「見る」と「見る」は全く違う意味です

しかし、我々の状態では
マインドでそのマインド達が作り出したマインド達を見ているのです
そして、その「見る」は真の「見る」ではないことに気づきます
我々が見ているものは「見る主体」も含め、真の「わたし」ではありません。

ここで自分に対する違った見方が在ります、この認識できる自分はすべて真の自分ではないということです。

自分だと認識できる自分は全て私では在りません
自分は真我ではありません。


真の「見る」は我々が接近できません、なぜなら真我だからです。
我々は知識・記憶・条件付けられた認識と体験で構成されていますが、この我々のステージデは空間と時間軸を認識形式にしているため、これを超えている真我にアクセスできないのです。

このステージが自分の真のステージである非個人的意識である「見る」に至るためには、私は死ななければなりません

起こる必要があります
死が起きる必要があります
勿論肉体の死ではありません、肉体の死はこのプロセスを終焉させません、存続してしまいます。

覚者がたをみても分かるように、瞑想は起きました、覚醒は与えられました。
自分が行うものは全てマインドの範囲内です、我々の「ステージ」の「私の死」が訪れるのは、恩寵なのです。

この恩寵が起きるためには、待つ必要もありません、待つはマインドの作業です、これらは全て起きることだからです。

ここでは一切の自由意志は幻想です
しかし自由意志でしか、その歩は歩めません
神の意志が私達の自由意志なのです

全ては起きます

そして
順序としては、
1:超努力という絶えざる真我への愛によって恩寵による気づきが起きてくる
2:魂の死・本当の死が訪れる
3:あるがままをあるがままに見ることが訪れる

しかしこの「見」はマインドの現在の我々にとっては、認識が出来ず、「無」として捉えられます

このことはラマナ・マハラジからカルキからクリシュナムルティーからニサルガダッタ・マハラジからラメッシから教わりました

見ることは内なる真の私への絶えざる傾注から起きることなのです


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