私を離れて呼吸が出来るか

私を離れて分離の世界で、今二元性の中で生きていられるか

私を離れて考えることが出来るか

私を離れて人と会話出来るか

私を離れて運転できるか

私を離れて思うことが出来るか

私を離れて会議が出来るか

私を離れてこれを今、生きていられるか

私を離れてこの迷いの現象界を認識できるか

私を見ているものは
主体であり
自分を客体として見ているのであるから
この見ている主体は
真の主体ではない
客体である
真の主体は、この認識の形式では理解できない
それが私だ


見るものは見られるものである


対象の私は二元性である
真我はどこにあるか
真我は非二元性である


私は誰か



これがワークだ
ワークは
ワークをするときは
今だ

今だ
パソコンを打っているときも
仕事の話をしているときも
教えているときも
呼吸しているときも
全てが

今だ
目をそらしていけない
真の私から目を逸らしてはいけない
今が常にワークだ
自分の中にも、どんな人の中にも一つの私を
見るのだ

信じるのだ、思うのだ私とあなたのなかに同じ真の私を

生きている、そのものがワークだ
何のためにいまここにいるのか

生かされているそのことが
ワークだ

私は、生かされている

だから

だからこそ
ワークをしなくては

ワークとは
勿論
「私は誰か」である
その私とはあるがままの神なる私である


目をそらしてはいけない
他人のことを、批判して目が自分からそれてはいけない
他人を批判している私を見よう
私は誰か
私は非難している私ではない
私は認識し体験している私ではない

誰かをジャッジメントしているとき自分を見ているのか
誰かをジャッジメントしているその自分を見よう
私は誰か

目が二元性に捕らわれ宇宙が自分とは別にあるとおもっているとき
その二元性に自分が捕らわれている私を見よう
私は誰か

だから
他人が問題ではなく
私が問題だ
覚醒することが出来るのは
この私を信頼し、信仰している現在の私だ


それがこの意識の座である
だから
この意識の座が問題なのだ
だからこそ
真の私を信頼し、真の私を信じるのだ

私は誰か

知的にではなく
存在全体で
実存全体で
見る
見るのだ


あるがままの私をあるがままに見るのだ


この二元性を

この自分を

マインドがそれ自身を
見るものと見られるものに分離させて
認識と体験を生じさせ
自我を作っているのだ

私は誰か、その真の私を見ることが生きることだ
それを見続けることが
呼吸をしていることだ
生きていると言うこと

電話しているときも
本を読んでいるときも
買い物をしているときも
電車に乗っているときも
歩いているときも
教えているときも
瞑想しているときも
話しているときも
喧嘩をしているときも
イライラしているときも

自分を見のだ
現在の自分のこの「見」とは二元性で
真の私の眼ではない

見のだ

私は誰か
真我とは
私は誰か


私とはあなたであり
私とは全ての私である

それが教えられていることだ



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