私個人の本体とは何か 、本当の私とは。わたしとは。

わたしはなにか
わたしはエゴである、エゴそのものである。私はエゴである。
私の現在意識の奥にあって私を操作している、私そのものとは 、私とは
以下のような内容である。


私は自分を見るものと見られるものに分割し、見ている自分は、この私とは、別だと思うかもしれないが、そうではない。
自分を分割しているだけだ、自分を見る主体と見られる客体に分割しているのだ。

しかし
見ている自分は、見られている自分そのものであることは明らかだ

自分はこの現在意識の裏にあって、隠れている

私は何か? 自分そのものは、わたしとは?



暴力は私である、本当にそうなのだ暴力は私だ

恐怖が私である、恐怖は私の本質である、恐怖そのものが恐怖から逃げれはしない、恐怖は私自身だ

不安がわたしである 。

尊大が私である。

いつも一番と、一番前に行きたい、一番になりたい、と、そうなりたいと思っている のが私である 。

利用が私の本質、神であり何であれ自分の為に利用するのだ。

自分は特別だと思っている、私は皆と違う、普通ではない、神に近い、いつもそう思っている、それがわたしだ。
それこそ普遍的な普通人の状態なのに、
だから
このわたしのエゴの二元性は全ての人と同じ意識構造なのだ。 共通するエゴ、共通する私、共通するこの意識構造。

この今の地球では同じこの私という、意識構造が個人の本質である。即ち私だ。




私は愛がない、慈悲がない、全くない。

私は静寂がない 。沈黙がない。瞑想がない。

私は聖なることを体験していない、出来ない 。

私は思いやりがあるように、見せているが、本当は無い。全くない。
私は自分以外の人のことを思いやることはない。
従って
相手を利用すること、これが隠れた私の常套である 。

仮面カメレオンが私である
即ち
 私はカメレオンのように状況に合わせて、自分を有利に見せて、相手を利用し自分の利益を最優先する変幻自在の名優である
自分はエゴという概念に隠れている私そのものである、エゴという一般名詞に隠れて、私とは別だと思わせている。逆に私の中にエゴがいる 。私は即エゴだ。

商売人の、この私は、いつもこの自分の意識の奥に潜んでいる 。
 私は各種の多くの人格であるワサナに共通してみられるところの、共通項であり、自と他を分離し、自分のことのみの利益を考える商売人のわ・ た・ しである、人のことを考える、振りをして見せている。

私は自分の意識の基本ベースである、
 どんなときもこの自分は自分から離れられない。即ちエゴから、この私から。


これは全体からの分離意識である、全体性からも切り離されていると感じており、全体の為ではなく、自分の為に懸命に生きている、 全体から見ればこの私は、全体とは関係なくあくまで、個人として、勝手に動いている。 困ったことだ。

私は忍者である、いつも意識の奥にあって、自分の意識を操って、自分は良い人間だ、自分は正しいのだと、思わせているが その本体は恐怖、暴力、等のエゴそのものである

この私は良くなることは出来ない。
この私は良くなることはない。
この私は良くならない。
何故なら、この良くなろうとする私こそ、
即ち私、エゴであり
良くなろうとしている者が私そのものだから。
私の根本であるからだ。
根本が腐っているのに新しいものは生まれない
腐った枝に接ぎ木は出来ない。



悟ろうとすること 。

覚醒しようとすること 。

自分を乗り越えようとすること。

愛に溢れようとすること。愛を与えようとすること。

全体性に気づき、この二元性を超越し、非二元性になること。

自我を終焉しようとすること 。

死のうとすること(キリストの磔に) 。

これらを為そうとしているのが私自身、私だ、エゴだ 。


それこそ私だ、エゴだ。



これらは
全て、同じ「わ・た・し」、同じ自我の、同じエゴの、同じ二元性の、同じ私の、全て範疇内にあり

私の行うこと、すること、思うこと、感じること、体験することなど、私が絡んでいることは、全て、汚染されている 。私によって。

私が私から脱出することは出来ない 。
脱出しようとしていること自体、私そのものであるから 。

私が認識する私は全てエゴであり、見る私も、見られる私も、わたし・エゴだ。

このわたしの本質である分離と、二元性に気づき、非二元性へ、全体性へと目覚めることを念願しているもの、その人こそが私だ。

その非二元性に、非分離になりたいと熱願してるもの、主体であるわたし、
死を願い、
消滅していることを心から熱願している
それこそ
本体、私、エゴであり、わたしそのものである 。

わたしは分離であり、二元性であり、それからの脱出を願うところの二元性である 。
わたしこそが分離であり、二元性であり、それからの脱出を願う二元性そのものである 。


私は分離されている。

私は二元性である 。

私はエゴである。自我である。




私はなにもすることはない 。

希求することもエゴなのだ。

祈ることも裏にエゴがいる 。

私がすることは全てエゴからである 。




私はなにもすることはない 。


私はなにもすることはない 。

私はなにもすることはない 。



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