この自由意志の問題は、非常に間違いやすいし、歪曲して取りやすいので、難しいと思います
クリシュナムルティーやニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシなどを真剣に学んでいない方は、間違って取るので危険かもしれません



ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシやラメッシなど覚醒した方は揃って、自由意志が存在しないことを指摘されています

その線に従ってそれを復習したいと思います

この三界、この現象界は聖なる催眠であること
このマインドによって作られた自己が「自分の自由意志で生きていると思っている」壮大なドラマであること
(真我ではないこと)
「自分の人生」だと勘違いしていると言うこと

私達の人生に起きることは全て筋書き通りに起きているのだと言うこと
いいこと、悪いこと、嬉しいこと、悲しいこと、金持ち、貧乏、才能を与えられること、逆に不虞の身体を与えられること、良い環境、悪い環境、病気、健康、出会い、そして別離などなど

それに対して
私達が行うこと
良くなろうとすること、逃げようとすること、近寄らないようにすること、招くこと、自分を反省して変えようとすること、どうしてそのようになったのかを知ろうとして探求すること、人生の目的を見つけようとすること、祈り、反省、祈願、信仰、そしてそれら全ての元になるマインドとそれに付随して起こる思考作用と感情や概念観念などなどの内面と外面の行為、又どこか聖なる場所に行って自分を高めようとすること
この内面に起きる反応や自由意志も全て
聖なる筋書き通りに起きていること

そういうことで

それがすべて聖なる催眠で、この現象界は内面も外面も、主観世界も、実際のこの対象の世界も、内も外も、一切の例外もなく、聖なるドラマであること
この現象界の全てが、想念帯としてのマインドも含めてただ聖なる意志に従って起きていること
私達は自由もなく、自由意志もなく、「自由意志が在る」「自分の人生」と思って奮闘しているのだということ


それに対して
わたし達が完全に目覚めたとき、完全な自由があったということに気がつくと覚者達は言います

私達が注意深く人生を観察して見ると、不思議なシンクロ(共時性)が起きていること、人生は全て不思議な力が、自分の意志ではなく、自分の意志と思わせてしまう程の圧倒的な力で、不思議な偶然が重ね重ね起きていることに気がつきます

私の周りに起きることは
すべては聖なるドラマであり、在る役割を、ドラマの出演者の役を演じさせられているに過ぎません
私達はその聖なる催眠にかけられて、自分たちの人生で、「何かが」が自分の人生に起こりそして、自由意志でそれに対処して、良くなろうと錯覚しています

しかし
その自分の人生に起きることも、自分の「自由意志の中身」も全て聖なる筋書き通りだとしたら
本当は、全ては完全に、完璧に、この現象界の出来事も、筋書き通り起きており、私達の内面も、思うこと考えること、悩むこと、喜ぶことも、思考感情も全てマインドと脳の条件付けでそして生まれる前に肉体に埋め込まれた設計図に従って完璧にコントロールされているとしたら

あなたは、どう思いますか

ですので、その聖なる意志に従って覚醒が起きる事が必要なのです
自分に起こる瞑想も聖なる意志であり
この聖なる催眠から覚醒し、このマーヤから目覚めることも聖なる意志であり
目覚めないことも聖なる意志であり

全ては

ただ起きるのだとおもいます

無明も根本無明も、マインドも神も悪魔も、肯定的勢力も、否定的勢力も全て、完璧に至聖なるコントロール下でただ起きている、壮大なドラマが演じられているということ
それらの悪魔とか悪とか、否定的勢力も「使われている」ということ、「演じさせられている」ということ

この現象界も全ては完璧であること
私達のこのちっぽけな頭脳のマインド、時間と空間の思考の形式に束縛されているマインドではどうしても認識できない、もの凄い壮大なる英知が働いてこの現象界を成立させていること

焦ることは何もありません

全ては起きるのです

内面も外の世界も



覚醒も筋書き通りに起きるものは起きるし、起こらないものは起きないでしょう


では

私達は何をすべきでしょうか

何もする必要は無いと思います

私達がすることは全てマインドであり、自我の動きであること

良くなろうとすること、もがくこと、改善しようとすること、これもマインドの自我の動きです

祈ること、祈願すること、信仰すること、悟ろうとすること、真実を探求すること、、神を敬うこと、これも隠れたマインドの自我の働きです
後ろに自分の利益を考えるマインドが控えているのです

私達は今の段階では良いことをすることは出来ません
愛しようとしても、その根幹に自分の利益を考えている自我が潜んでいるのです
私達の行うこと、思うことは全て汚染されているのです、マインドによって、自我によって




何もしない
どこにも行かない
今、ここにいること

それをただ見ること
しっかりと見続けること

見ること、気づくこと、観察すること

自分に認識できるものは全て真我ではない
神の、真の私ではない。

エゴとは私ではない、マインドは私ではない、私は私ではない
私と認識し、思えるものは全て私ではない

私は私を完全に超えて、認識の形式外に在る


これを幾多の世を重ねて、探求に探求を重ねて
多く傷つき、迷ったそののちに
いま、ここにやっと、ここのニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシ達の教えに触れることが出来ました


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