真実が露わになったとき
この知覚している主体は偽りだろう
観念だっただろう
それが了解されるためには
本当の目が必要だ
覚醒が
分離している見るものの主体は始めから存在していなかったと言うことが
分かるためには
主体は
無と空になるらしい
そのとき
私が作っていた客体も当然、無になるらしい
夢から醒めるとは
このことらしい
これがメンタル界の覚醒だ
どうやら無との出会いが決め手のようだ
即ち、
客体によらない主体の発見、
真の純粋主体の到来である。
今までの「主体≒客体」システム=二元性、が崩壊する必要がある
そうでないと
「主体=客体」=純粋主体性
という、「見るものは見られるものである」という
純粋主体性の世界にオープンできない。
まず主体が空になり(即ち諸法無我となり)
客体も空になる。(即ち色即是空となり)
そのためには
虚無と空がどうしても前提条件であり
それが訪れる必要がある。
それを通過して
そののちに
新たに
生まれ変わる。
第2の磔。それがスピリチュアル界の手前の高次メンタル界の覚醒だ
色即是空の覚醒だがそれは未だ途中だ
そこから純粋主体性としての全体性の
リアリティーの世界が開陳される。
しかしこれらの前提である
真の「見るものは見られるものである」の理解は
私には、出来ない
何故なら
そこは(純粋主体性の世界は)それを理解する主体の存在を許さないからだ。
私達は内面を探求している。
私達は自己を探求している。
そして
真の自分とは何かを求めている。
しかし
自分を理解し、認識する
この方法(二元性・自他の分離・主客の分離)が
問題であると思う。
この方法とは、人類に与えられている方法であり
いまのところこれに私は被われている。
即ち主体≒客体である。
即ち主体と客体の分離である
即ち主体の認識方法は客体化すること、対象化することである
これは自分をも客体化し、主体にそのような方法で接近する。
見る私がいて(即ち主体がいて)、見られる私(即ち客体としての私)がいる
この二元性は、外界にも、内界にも、いわゆる神との遭遇にも適応される。
私達の現在の存在の形式が全て、この二元性を根幹としているので、これからはずれての認識や理解や存在の形式は無いといえる。
しかし
真の私は、あまりにも単純明瞭で全く対象化出来ない、客体化出来ない。
対象の私は真のわたしではない。
客体の私は真の私ではない。
真の私は対象ではない。
さて話は元に戻るが
この二元性は私達そのものなのだ、私の在りようの根幹なのだ。
ではその二元性とは何か。
それは
私という根幹の「認識主体」がいて、私以外の対象たる客体が認識される、が、客体が認識されるのは認識主体たる私が前提とされる。
私という根幹の「体験主体」がいて、私以外の対象たる客体が体験される、が、客体が体験されるのは体験主体たる私が前提とされる。
私という根幹の「思考する」主体がいて、私自身の思考が客体として(対象)として認識される、が、見られる客体としての思考は見る主体を前提としている。
私という根幹たる「感情」を見る主体がいて、私自身の感情が客体として(対象)として認識される、が、見られる客体としての感情は見る主体を前提としている。
私という根幹たる「恐怖」を見る主体がいて、私自身の恐怖が客体として(対象)として認識される、が、見られる客体としての恐怖は見る主体を前提としている
私という根幹たる「至福」を体験する主体がいて、私自身の至福が客体として(対象)として認識される、が、見られる客体としての至福は見る主体を前提としている
私という根幹の「神を体験する」主体がいて、私自身の神を体験することが客体として(対象)として認識される、が、見られる客体としての神を体験することは見る主体を前提としている。
これらに全て共通していることは客体の存在は主体の存在を前提としている。
即ち客体は主体がなければ存在できない。
この私とは何か、私は誰か。
見られるものは見るものが存在する、ので見られることが出来る。
知られるものは知るものが存在する、ので知られることが出来る。
主体は自身を認識するために二元性を生じさせた。
見るものと見られるものの分離であるが。
それは
主体そのものを知るために主体を、客体として捉える方法であり。
主体そのものを客体化してしまうために。
二元性が生じてしまう。
二元性こそ分離であり。
マインドの根源であり。
自我そのものである。
しかし、その二元性を超えて
主体そのものを認識する方法、それが私には無いのだ。
認識と言うことそれ自体が主客の分離を意味している。
体験と言うことそれ自体が主客の分離を意味している。
主体そのものを知るためには
やってくる必要がある。
この意識の場に起こる必要がある。
見るものは見られるものであるの非二元性である洞察は
やってくる。
この二元性が崩壊する必要がある。
自己を客体として見られなくなってしまうときには、
主体も意識できなくなる。
意識にとっては、その主体は無に等しい。
だが、もしも何かを意識し、認識したとすれば、
それは客体となってしまっている。
この偽りの
二元性が崩壊するしかない。
見るものと見られるものが別にあるのではなくて
見るものは見られるものであることが看破されたとき
この二元性が崩壊するに違いない。
色即是空である。
純粋主体性が真の自分が現れるためには
このシステム「見るものと見られるものの分離=二元性」は崩壊する、必要がある。
この純粋主体性とは、何かを知るときに、
知る者、知られる対象、知る行為そのものが、皆同一で分離していないことである。
それは、目それ自身を見る目と言ってもよく、
どこを見てもそれ自身(純粋主体性)しか見えないのである。
二元性は私達の眠りの世界
非二元性は目覚めた世界
二元性は主体と客体の分離の世界、「見るものと見られるものが別々にあると思っている世界」
非二元性は純粋主体性の世界、「見るものは見られるものである」世界
二元性は輪廻転生が、あると思っている世界
非二元性は生まれていないし、従って死にもしていない、不生不滅の世界
二元性は自分以外に、神が存在すると思っている世界
非二元性は内も外もなく、神も、他人も、自分も一つである世界
二元性は対象がある世界
非二元性は対象のない世界、体験や認識の及ばない、存在の世界
二元性はアセッションがあって、2012年がある世界
非二元性はこの宇宙と時間が生まれる基盤の世界、アセッションや2012年がない世界
二元性は私達が何かをしていると、そして何かが出来ると、即ち自由意志があると錯覚し、自分が何か行為していると思い上がり、神からの使命があると思っている世界
非二元性は自由の世界、全てが愛で、既に完璧で、何もする必要のない、何も付け足さない、既に完全の世界
二元性は主体と客体の分離世界
非二元性は純粋主体の全体性の世界
二元性は自分がある世界、主体の存在する世界
非二元性は全く自分のいない世界
二元性は想念の現象界
非二元性は虚無と空の中、沈黙に開示されるすべてが、普遍の世界、現象界を生み出し支えている時間のない実在界
バーナデットロバーツの体験はここを明細に説明している。
見る主体が空っぽになったとき、沈黙で虚無があったとある。
そして絶対主体性を見た者には、すぐに答えられる。
つまり、どこと言えば、いたるところにあり、
何かと言えば、ありとあらゆるものなのである、
見られる客体もその沈黙と空虚に、取って替わったとある、即ち消滅である。
特に強調されるべき事は、
この旅は、最後には存在全般に渡る虚無で出会わなければならないという点である。
希望も信頼も奪われ、意識するものも無意識のものも含めて、
ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず滅び去ったあとに、
突然『悟り』が現れる。
つまり、究極の実在なしに生きることに十全に慣れて、
ついにはその状況を受け入れるほかなくなった時にのみ、
『悟り』が顕現するのである。
そして
そこに道ばたの野草一輪の微笑があったとロバーツにある。
それは見るものは見られるものであるところの
非二元性
全体性
自我の終焉である
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