私は条件付けられている!
その昔、「分かちゃいるけど、止められない」という、ソングが流行ったことがある。
自分の意志に反して、自分が、自動的にその状況で勝手に反応して、思考、感情や、行動がコントロールされることだが、
それこそ、そのような条件付けの機構をうまく現していると思う。
「分かちゃいるけど、止められない」
さて
この条件付け、への問いは何故、起きるのか
私は自分の人生でいつも、思うことがある。
私達は、何故、今ここにいるのだろうか
私とは何か
真実はなにか、一体どのように、「この私」はなっているのだろうか。
私の現在の認識では認識できない真我とは、本当に存在するのか。
この自分という、謎が解けない限りは、果たして人生は価値があるのか、そして、この問いがどれだけ自分にとって切迫しているのか。
勿論、この肉体の維持のために生活は必要だし、そう言う意味で外面的生活も必要だが、もっと根源的な、生きている、理由そのものに関わる問いがある、「わたしは何か」、「私に至ること」、これがそうだ。
何故、それが、私にとっての最大の人生の理由なのかは、私にすら、不明だが、
私にはこの「自分に至ること」が、全てであったし、今も変わらない
どうやら、これも私の条件付けなのかもしれないが。
さて、この場合の私とは、肉体ではなく、肉体は含むが、自分に意識されるところのもの、自分の意識の座に昇る、内界であることはハッキリしている。
要するにこの意識が自分である。
この意識である自分、これが私の探求する、その中身だ、私だ。
私の内面の紹介はさておき、
そのような私であるので、この「条件付け」は、非常に、私にとっての、問題になった次第である。
さて本題に戻るが
たとえば、私のことで恐縮だが、
私は幽霊や、その類のものへの恐怖心等が、よく内面で自覚される。
今ここでは、この際、多くの、クリシュナムルティー達の指導者の解釈は脇に置いて、
よく自分を観察していると、その恐怖心は、ある状況下に、外界の諸条件が設定されると、自動的に、自分に引き起こされていることに気がつく。
そして、私の場合は、その恐怖心に対応して、どこか違う場所に移動したり、部屋の電気を点灯したり、
又は、本から指導者から教えられたように
その恐怖心を味わおうとして、あるがままの自分の状態を受け入れて、そこに留まろうなどと努力する、が。
(これはスピリチュアの先覚者に言うことに従っての行動だが)
しかし、その恐怖心はお構いなく、やってくる、わき起こり、そして、自分がそのような状態に陥る。
即ち思考と、感情と行動が決定されてしまう。
自分のそう言う精神状況を、あるがまま受け入れようとするが。(実は、それを超越しようとする行為こそが、自分の反応から逃げようとする、行為に他ならないのだが、結局、変化も起きないし、超越もできない。)
何故か
もう一つの具体例を挙げると
運転をしていて良く気がつく事があるのだが、
前が渋滞して、どうしようもない車線なのに、わざわざ、ぴったりと後ろに、くっついて、嫌がらせをされたときなどの、自分の反応を見ていると、急にブレーキをかけたり、自分も嫌がらせをすることがあるのだ。
自分の意志に反してだ。
これはどういう事だろうか、
自分はそういう人間でなく、自分はいい人でありたいのに、そのような嫌がらせに対しては、愛を以て反応したいのに、自動的に、その反応が出てしまうのだ。
意志に反して。
この一つ前に書いた、恐怖心と全く同じように、自分は条件付けられているのだ。
その条件付けを、
前世のある起こったことが原因だとか、
幼児のある体験からだと、
色々言うことが出来るが、
ではそういう、その同じ状況でも、違う反応をして、条件付けの原因にならない場合もあるわけで、
さかのぼって考えると、これらの条件付けは、
もっと根本的に、そのように反応するように、
自分に「書き込まれて」いるように思われる。
であるので
まさしく、「分かちゃいるけど止められない」という状況が発生しているのだ。
それは自分の内面が、深く条件付けられている、からに他ならない。
従って、当然に、そのような反応しか出てこない結果になる。
この場合の結果とは、感情であり、想念であり、思考であり、
要するに精神状態であり、肉体の行動である。
このように、自分の中での具体例を数え上げればきりがないのだが
もう一つだけ例を挙げれば、
名誉欲の事でも、そのように思われる、
私の場合、自分とは名誉欲があるような人間ではなく、そう言う名誉欲などは無縁で、全くないと、信じ込んでいるがしかし、ある状況下で、ある条件が、設定される場合など
何かの大事なイベントで、自分の紹介が誰より前だとか、後だとか、もの凄く、自分の事ばかり心配したり
業界紙での自分の地位を非常に意識していたりする。
スピチュアルなイベントで、自分を凄く意識したり
グループの中で、自分の地位を異常に気にする
要するに自分の精神的、霊的なランクを決定されるときなどは、最も熾烈に、この自分の地位を意識している事に私は気がつくことがある、霊的エゴである。
分かり易く言うと誰がキリストの隣に座るかで、争いが起こり、殺し合いになるようなものだ。
これらの名誉欲も深く、私に内在していて、ある状況が揃うと、自動的に、自分の条件付けが、発動して、そのような名誉欲が、自分の中に、沸き起こってくるという次第である。
そして自分の内面が被われ、自分がその名誉欲に一杯になってしまうのだ。
そして、それに付帯する感情がわき起こり、思考がやってきて自分を支配して、行動をもコントロールされ、そのように思い、そのように考え、そのように喋り始めるのだ。
私達は奴隷である。
私は奴隷なのだ。
であるので、このような条件付けはもの凄く、そして深く、
必ずある状況下では、その条件下ではこんな自分ではないのに!!
と思わず絶句するほどのものが出てくる。
感情が、想念が、思考が、行動が
その中身は
不安、暴力、無関心、恐怖、欲望、などだ。
それらは自我の働きのそのものだ。
要するに、
自分の意識より、もっと深いところで、私の意識と、私は条件付けられていて、
全く思考や、感情や、想念や、精神状況や、行動が、
自分の願っているものとは、正反対の状況が起きるように、完全にコントロールされてということだと思う。
この状況を説明して
自分自身がその条件付けの中身そのものとも、そのようにも捉えて、
「私は糞尿だ」とも言えるが、
しかし
今の私は、何か違うように感じるのだ。
その「糞尿の自分」は自分に与えられた条件付けにすぎないのだ、とも感じられる
即ち、自分には行動や思考や感情や想念の自由は無い、
けれど、
それらは
即、自分ではなく
自分をがんじがらめにしている、条件付けのように、感じられるのだ。
勿論、条件付けられているので、
必ず、ある一定の状況下では、自分の反応は自由にならず、
決まった様に、感情が、思考が、想念が、行動が、出てくることだろう、
また、
今の私には
条件付けられているので、目覚めることも、見ることも、覚醒することもないが
条件付けられていることだけは分かる
即ち、
私は自由ではない、
条件付けられている、勿論他人も同様である。
ここで
「罪を憎んで人を憎まず」の意味がおぼろげに分かった
私は自由意志がないし、状況も自由がないのだろう
全てはコントロールされている
内界も外界も
完璧に
条件付けられている
真の私ではない知覚し体験している私とは条件付けられているのだ
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