覚醒は一人一人独特であり、その実現へのプロセスは、本人の過去の歩んだワサナなどにより、百人百様といわれている。

で、あるのでどのパターンを、通過しなくてはならない、ということもないが
久司さんのように、あまりに突然訪れる場合は、途中が省略されていて、彼の場合、過去世で積み重ねたことがおおきく、今世において恩寵が本当にストレートに来たのだと推測される。

いずれにせよ、目覚めは、恩寵である。
与えられるものである。
自分の努力や自分で達成できる性質のものではない。

私達に出来ることは何もないし、待つことすら、招くことすら、マインドの働きであって、恩寵の流れを妨害する。

何もすることはない、なにもできない。ただ座る。ただ瞑想する。ただこのプロセスを見る。

この全プロセスを見ること
これだけである。

さて、ここにMIXIの友人SWAMI ATMO KRANTI さんから頂いた、バーナデットロバーツの覚醒の体験記がある。

最も、ポピュラーな覚醒へのプロセスではないかと思われるので紹介したい。

さて
覚醒とは何か、目が覚めるとは何か。

何から醒めるのか、
それは二元性から、醒めることではないか。
自他が分離していないこと、全体性に醒めることではないか。

「見るものと見られるもの」「観察者と観察されるもの」「知るものと知られるもの」は分離していないという。
このことは、自他の分離こそ、エゴとマインドが作り出している「私−対象」、「主体−客体」という根源的なカラクリであることを見抜き、そして目が覚めることである。

本当はこうだといわれている。
真実はこうだといわれている。

「見るものは見られるものである」、「観察者は観察される者である」、「知るものは知られるものである」、
主体と客体は分離していない、全てはワンネスであり、一体である。

個として分離しているものはなく、全ては一つで全体性である。

世界は完璧である。
これがあるがままをあるがままに見ることであり、私達はあるがままを自分という存在を通してマインドのエゴの色眼鏡で見ている、私達は、真実とは、全く違うようにこの世界を見ている。

悟りの目からは、この世界は分離せず、完璧で、神そのものである。

私の認識(二元性の罠)では捉えられない、記述できない、
記述そのものがマインドの自他の分離に、基づいているのだから、

見る主体そのものは、客体ではない、
主体を客体化して見たとき、主体ではない。
主体は対象ではない、従って対象として認識する自分は全て主体ではない。
感情、思考、記憶、経験、自己の持つ不安、恐怖等々。

認識対象である自分は主体ではない。

主体は客体ではない、
この自他を主体と客体に分離して認識する、この根源的認識方法が終焉するまでは。

この分離の終焉は、即ち主体と客体の脱落であり、無の到来であると思う。

そして、その無の中に、訪れるもの

非二元性、全体性、自と他の分離のないもの、真の主体、即ち純粋主体性。
本当の普通、あるがまま、全てがひとつであるもの。


以下
バーナデットロバーツの覚醒の体験記である



●バーナデットロバーツの体験の諸相●



私の意識の旅は、
永遠に虚無の中に引き込まれて、もとには戻れないという恐怖から始まった。




11歳のとき、授業に退屈して机に頭を伏せて空白に入ると、
記憶がすべてなくなるようで、自分が何を着ているかも両親の顔も、
自分自身の顔を思い出せなくなり、
自分の頭があるかどうかを手で触って確かめたことがあった。
その時、手が異常に重く、身体の力がすっかり抜けてしまった。




深い静寂の中にいる時には活力が低下し、
沈黙に飲み込まれないように努力をしたものの、
最後には疲れ切って座り込み、そのとたんに意識を失ってしまった。
その間は、数分から数時間に及ぶこともあり、思考も感情もなく夢もなく、
自分の周りも意識せず、すべてが停止した無である。




ある時、ふと内部に意識をむけたところ、
私の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽだった。
それを知った瞬間には、静かな喜びがあふれて来た。
そして身体が非常に軽くなったように感じたので、
足が地についているかを確かめたほどだった。




しかし別の時に、この喜びを再び求めて内部を見つめたところ、
突如としてこの空虚が四方八方に拡張して広がり始めて、
私は爆発しそうになった。
まるでエレベーターで何百階も落ち続けるような気分を胸に感じ、
生きている感覚がなくなってしまった。

そして落下し尽くしたとき、私には内部というものがなかった。
そして生の感覚を奪われたまま、今ここに、ただ立ち向かうほかなかった。
身体に異常はないのだが、何かをしようとしても、
動作がひどく機械的で、すべて条件反射で動いているようだった。




万事を管理する自己がなければ、通常の自衛機構も働かなくなり、
外からの圧力をすべて肉体的な力で受け止めなければならなくなる。




だが、何も考えず、何も知ろうとせず、活力を欠いたまま、
ただ生きるための、何の満足も伴わない活動によって、
その体験の強烈に受け身だけでいる危険を避けることが出来ることが分かった。




活力とは通常は自己保存のためのものであるが、
私はそれなしに生きる方法に慣れてゆくしかなかった。




私は自分が存在しているかどうかも確かではなかった。
私の身体のほかに唯一残っているのは、「見ること」だけだったが、
これすら私に属しているとは思えない。
ただ、それは、位置としては頭の少し上の前方にあるようだった。




見ることだけが私の生活となり、全くそれに依存していたものが、
あるとき、それすらも、もう無くなってしまった。
どこを見ても、恐ろしい虚無が侵入し、生命を奪ってゆくかのようだった。
生命が急に抜け落ちて、その後には死と崩壊しかないのだった。




一般に自己と呼ばれるものは、この絶対無を見ること、
生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいると理解した。




また恐怖こそ、人間の営利の源で、
それを中核として自己が築かれているので、
恐怖と自己とは同じものだと言ってもよい。

しかし、私には恐怖すら起きなかったので、逃げることも出来ず、
対抗する手立てもないままで、虚無を見守り続けるという、
生きた心地もしない状況におかれていた。




あるとき、どうなってもよいから、それと直面しようと決心した。
始めのうちは、私の反応は鳥肌が立ったり、ぞっとする程度だったが、
そのうちに、頭に火がついたように熱くなり、
目の後ろが強く押されて目がつぶれてしまうそうに感じた。

目の中にいっぱい星が見え、足が冷えてはじめ、
それは次第に頭を除く全身に及んだ。そしてとうとう、痙攣をおこして、
私は激しく動揺したまま背後に倒れてしまった。
死ぬのなら死んでもよいから、もう終わりにして欲しいと思った。




無限の時間のように思われた静寂ののちに、気がつくと、
それは去っていて、ふと振り向くと、30センチばかり離れたところに
黄色い野草が見えた。

その時、その花が、まるで全宇宙からの歓迎であるかのように
微笑んだのだった。

私は目もそらせず、身動きも出来ずにその微笑の強烈さに耐えていた。
その後、しばらく私は、身体が溶けてなくなってしまったように感じた。

すべてが消滅した後には、ただ喜ばしく暖かい、
何か完全に主体的とでも言えるような微笑が残っていた。
これを言葉で表現するとしたら「溶解」としか表わせないものだ。




『悟り』は、あまりにも単純明瞭で全く対象化出来ない。
今まで見なかったのが、むしろ不思議なぐらいで、
しかも『悟り』は自分の力で見たわけではない。
むしろ、見せられたと言ったほうがよい。

微笑が向けられた未知の対象は、その主体と同一であり、
それがまた微笑自体でもある。




無自己の状態だけからは、究極の至福には到達できない。

第一の過程では、主体のない意識状態にあり、
すべての存在がひとつに動的に結ばれ、永遠で聖なるものに見えた。
私はいつまでもそこに留まりたいと思ったが、
これはまだ純粋主体性ではなかった。




第二の過程では、客体もまた虚無に飲み込まれてしまう。
第一の過程での純粋客体性は、
ここでは、全存在の絶対無に置き換えられてしまう。 
ここで知られるものは、意味を全くもたない、虚無的な外界のみであり、
その上、意識すらも消えてゆくのではないかと思うこともあった。

そして、無意識になるならば、むしろありがたいのであるが、
最低の生の状態に身動きも取れないままの状態が続いた。




そして、最終段階は、「向こうから」『悟り』が姿を表した。
そこには、それ自身を見る目だけがあり、
したがってこれは「誰」に向かって示現されたというものでもないのである。




この目は、意識ではなく、
ただそこにあり、それしかないものとして、自身を見ているのであるために、
私はこれを純粋意識ではなく、純粋主体性と呼んだのである。

これは、内省によって知られる(意識される)ものではないからである。
これは、一致によって知るという単純な知り方で、
人間以外の万物はこれによって自己を知るものであるから、
存在世界の中で、特に異常なものなのではない。




私の旅が終わったあとでは、
まったくの現在のこの瞬間にしか生きることは出来ず、
心はその瞬間に集中していて、過去や未来を思慮することがない。

観念は別の瞬間に持ち運ばれず、他の観念と照合もされず、
心は一点の曇りもなく既成観念が入り込む余地もない。

要するに考えることと為すべきことは、常に目前にあり、
何を考えるか、何を為すかという事で迷って停滞するということがないのである。

純粋主体性は、全存在が集中して張り詰められた
「今」へのまったき覚醒を与える。


●悟りの後の生活●



心が完全に沈黙したままでも、他人の言うことに耳を傾けることは出来た。
また、思考を要求しないような本ならば読むことができた。
沈黙した心のまま、会話もできることが分かった。

ただしこの内容は、はじめは実際的な事柄に限られていて、
しかもごく短いものであったが、
次第に楽に心の外での会話が出来るようにもなった。




物事は全体として見えるだけで、しかも、
それも何かをしなければならないような、特に緊張した場合にかぎられている。
これは個々のものに焦点を合わせられない子供の知覚に似てる。




そして、以前に好きだった音楽は雑音となり、
自然音と沈黙が私の楽音となった。
当然生活は、単純化され、美がなければ何かを特に珍重することもないので、
実際的な用途のないものを所有する意味もなくなる。

何かが特に美しいということがなければ、すべてが美しく、
すでにその美の一部となって所有されているのであるから、
何も所有する必要がないのである。




自意識の喪失とともに、身体感覚もある程度失われたようだ。
変容の時期にあった時には身体が絶えず溶け去るように感じたのもそのためだろう。

しかし、やがてはこの状況に慣れ、
身体の訴えをいちいち聞かないで済むのである意味では
前よりもよく身体の世話をすることが出来るようになった。

肉体的苦痛は感じるのであるが、疲れたとか、休みたいとか、
楽になりたいというような、気持ち、つまり意志がないのである。

また、それまで生きるために必要だと思っていたもの、
つまり自己や情意や活力が、実は必要ではないことが理解された。




純粋行とは、行為者も行為の対象も不可知であって、行為のみが知られる。

そこでは、行為とその対象と、その内容が皆ひとつであり、
知ること、見ること、為すことが、相互に区別されない
単一の「行」をなしている。




自意識なしの思考は、現在の瞬間に結び付けられた、
実際的なものばかりである。

普通の思考は、心が外と内、過去と未来を往来し、
個人的な感情や意向に振り回されて疲労しているだけであるのに比べれば、
この思考は必要最低限に局限されたものであり、
各瞬間の目前の明白な事柄に対して、頭に閃くようになされる。

こうした沈黙を伴った行為では、思考がなくなるわけではなく、
ただ自己の影響を受けた曇った思考がないということである。
こうした時、行為は存在と同一なのである。




純粋行が理解されにくいのは、
人は普通、行為を「誰が」「何のために」「何をするのか」、
という面で考えるからである。
しかし自己がなければ、そういうものはなく、
行為と存在が一致したときに、純粋行となるのである。




基準がなく、努力も選択もいらない生活、
相反するものを釣り合わせることもない、非相対的なこの生では、
情意(あるいは思考)の働きで、どちらかよい方を選ぶのではなく、
ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るだけなのである。




今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を思う余地はない。
基準がなく、選択の必要がなければ、
今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。




この生は、相対性からくるような思考の働きからは無縁な、
沈黙という意味での静寂の中に包み込まれている点では、
閉鎖的とも言えるが、従うべき基準もないために流動的なものでもある。




また、人徳という意味では、後退したと言う言い方も出来るだろう。
つまり、徳の遂行の必要がなくなったのである。
徳でも悪徳でも、それを行う意志そのものがもうないからである。




意志がなくとも、知性の働きは妨げられないため、
意志と知性は本質的には結び付けられたものではないとも理解された。




今の瞬間に生きる者にとっては、
何をどう感じるかという事は問題にならない。
時間的にも、内的にも、前後へ揺らぐ余地がないために、
努力や選択などの、どんな動きもあり得ない。
各瞬間は、それに応じた行動を伴っていて、
考えたり感じたりする必要がないのである。


 ●悟りについて●



自己がなくなれば、『悟り』だけが残る。
時にはそれは非常に強烈にもなるが、
何か異常なものではなく、自然で平明なもので、
どこを見てもあるという意味では、むしろ通常のものなのである。




『悟り』が経験されるのは私の内の客体としてではなく、
『悟り自身』の純粋主体としてである。
もしも、そこに意識が残っているとすれば、
それは『私はそれである』と言うほかないものである。




「悟りはどこにあるのか」という問いは、
「悟りとは何か」という問いと切り離すことができないものであり、
『悟り』の絶対主体性を見た者には、すぐに答えられる。
つまり、どこと言えば、いたるところにあり、
何かと言えば、ありとあらゆるものなのである。




純粋主体性とは、何かを知るときに、
知る者、知られる対象、知る行為そのものが、皆同一で分離していないことである。

それは、目それ自身を見る目と言ってもよく、
どこを見てもそれ自身(悟り)しか見えないのである。

そこには、内も外もなく、
その目が何に属していているかを問うのは無意味である。

その問いに答えたとしたら、
そのとたんに知る者と、知られるものに区別が起きるからである。




『悟り』の純粋主体性は、どんな対象にも依存していない。
しかし通常の主体性では、知る者と、知られるもの、
主体と客体は分離していて、自己をも含めて、
あらゆるものが客体として(分離したものとして)意識される。

したがって、普通は主体が自分自身を主体として見ることはあり得ない。
主体は、心が心自体を反省する機能によって客体化されて始めて知られ、
こうして、自分自身の意識と感情と思想を自覚する。




誰でも、時には主体としての自己に触れることは可能であるが、
それは自己の客体化の機能が止まっていて、
自分の思想や感情、そして意識そのものさえも意識されない時に限られるのである。

しかし、その出会いは、心に留めることはできないので
一瞥されるのみである。
たとえ一瞥でも、この反省機能の停止状態で出会うのは、
主体的な自己という一種の『虚無』で、これを私は『無自己』と呼ぶ。




現在の瞬間には、自己に関連する何ものも出て来ない。
『悟り』自身を見る『目』は、
すべてをこの瞬間に結び付けているために、自己を必要としないのである。

そこに残っているのは、
自己が始まる以前からそこにあったものなのである。




『悟り』では、通常の意識の場合のように、多くの対象を見るのではなく
客体はただ一つで、それが同時に主体でもあるのだ。

したがって『悟り』は通常の意識の客体のように、
時によって見えたり、見えなかったりするようなものではなく、
生活の中でも、いつも同じままである。
つまり純粋主体性の状態でも外界の事物は知られるのである。

ただ、その知り方が通常と違う。
客体を知ることが、同時に主体を知ることになる。
従って、相互に分離した事物を見る場合でも、
その目は、それ自身を見ているだけなのである。

たとえば、木を見る場合には、
その木を見る者は私ではなく、見られるものは、単なる木ではなく、
どちらも『悟り自身を見る目』の「二つの様相」であり、
私はこれを「純粋主体性」と呼んだのである。




『悟り』は、直接に体験するしかなく、
観察によって分かるものではない。
そこには、観察されるものは何もないからである。




人は、自分の中に見るものだけを他人の中に見るのであり、
内側に自己がなければ、外側にも自己はないのである。
従って、非相対的な純粋主体性にとっては、他人というものがないと言ってもよい。




絶対無というものは、知によっては捕らえられないが、
この絶対無こそが『悟り』であるというところに、
最後に到達するのが神秘家である。




『悟り』は無視すればするほど注目させようとし、
注目しようとすればたちまちに姿を消してしまう。
真の意味で『在るもの』、『悟り』は見ることは出来ない。

『悟り』は対象になり得ず把握できず、また主体にもならない。

その原因は、『悟り』自体が非相対的なもので、
自己意識がないために、自己を意識するような通常の心とは無縁であるからだ。




去来するものではない『悟り』を、あえて見る秘訣があるとしたら、
『悟り』に注目しようとしないことである。

悟りの中では、
見るもの、見られるもの、見ることの3つがすべて「一つ」である。


 ●通路としての瞑想のプロセスについて●



この通路を正気をもって通り抜けるためには、
平衡のとれた大人の条件づけられた心が必要である。




しかし、この通路は結局は、絶望も狂気も超えたところにある。
なぜならば、そこには狂ったり、絶望したりする何者もいないのであるからだ。
もしも自己があれば、その場で狂ってしまうか、逃げ出そうとするだろう。

普通に言われる絶望とか、憂慮は、
この不可知の重圧に比べれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎない。

だが、不可知の重圧は、防ぐ手立てもなく、
第一、それを防ごうとする者もいないのである。




初期段階では、自省つまり心がそれ自体を省みることが出来なくなると、
自己の活力と動きは停止する。

するとなんの感情も起きず、過去の記憶もバラバラになってしまう。
その時には、ひとつひとつの小さな事件が現在の時の全体となり、
しかもそれが過ぎればそこには連続性もない。




こうした沈黙(悟り)は、
自省・内省と自意識が消え去った後に残るものであるために、
自己の努力では達せられない。




静寂と虚無が、私のみならず、
万物におよび、特定の所在を持たないことを見て、はじめて、
この偏在する静寂こそが『悟り』であると理解した。




特に強調されるべき事は、
この旅は、最後には存在全般に渡る虚無で出会わなければならないという点である。

希望も信頼も奪われ、意識するものも無意識のものも含めて、
ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず滅び去ったあとに、
突然『悟り』が現れる。

つまり、究極の実在なしに生きることに十全に慣れて、
ついにはその状況を受け入れるほかなくなった時にのみ、
『悟り』が顕現するのである。




旅の最初では、無自己を感じても、それは自己に対する相対的な無自己である。

しかし、やがて自己と無自己の隔たりが大きくなるにつれ、
自己と無自己の対立も消えて行った。
したがって、無自己の沈黙すらも最後には感じられなくなった。




瞑想の第一段階が、「自己から無自己へ至る」とすれば、
第二段階では、「無自己から到達するのは、特定のどこでもなく」、
ありとあらゆるところと言ってもよいだろう。

それはまた、相対的な沈黙から、『悟り』への絶対的な沈黙への道と言える。

しかし、これはもともと言葉で表現し得ないことであり、
『悟り』が知られる道は、
『悟り』が『悟り』自身を知るよりほかにはないのである。

純粋に非相対的な次元では、
『悟り』は自分自身だけを見る『目』なのである。




そして、旅が終わると『悟り』だけが、唯一の現実となる意識の状態にあり、
個々の何ものにも注目することは出来なくなる。
認識は、まず、一なるものが見え、それから他に及ぶ。




究極の実在は、至福や幻視や変容の瞬間のような、何か特異な体験ではなく、
微笑のようなごく単純なものであり、
自己がなくなったあとに残っている『悟り』自身であるとは、
経験者でなければ理解はできないものだ。

たとえ、至福を対象としてでも、何かを期待するという事は、
自己の特性である。
しかし『悟り』はどんな意味でも(期待や観察の)対象とはなり得ない。




人が自分自身を見ていることで法悦に入るなどという事があろうか。
しかし実は人は究極の実在をいつも目にしているのにもかかわらず、
それがあまりにも普通で平凡なので、
他にもっと心を引くもの(神や宗教や神秘体験や光明)、
つまり「自己」を満足させるものを求めようとするのである。




すべての宗教が目指すものは、
世界や自己や神についてのすべての概念や、体系の外にあり、
それは信じることから、見ることへ転じた時に始まる。

『悟り』は直接に見るほかはないが、
見たところで知性によっては把握できない。




ただし、『それ』を見ることが終点なのではなく、
『悟り』の充満の中に溶け込むことがもっと重要である。
大気の中に蒸発するかのように、
いたる所に行き渡るということである。




もしも洞察を以後の心の働きに生かしておきたいのならば、
その秘訣は、それを取り上げて教理化しないこと、
それに考えを向けさえもしないことである。
洞察は来ては去ってゆくものであり、それを留まらせるには共に流れてゆくしかない。




疑問が生ずるのはしかたがないとしても、
それに早まった結論を出さないことが大切である。
経験を評価しないことではじめて、その真偽が明らかになる。

偽りは自然に脱落して、もともと去来するものではない真は、
そのまま残るものである。
つまり、真理は経験が消え去った後に残っているものである。




こうした変容を妨げているものは、外界の事物そのものではなく、
その事物について人間が考えることである。

もしもその考えがなければ、
そもそもこうした変容は必要がないのかもしれない。




これが究極のものだとして何かにしがみつけば、
生の流れに逆らうことになる。
ある時に本質だったものは、別の時には意味を失うものである。


 ●自己について●



自己の存在を知るには、
心がそれ自身を対象として見るという自意識は必要ではなく、
それがなくとも、思考や感情が起きてそのまま意識される、
と思っていたのは間違いだった。




自省の機能は意識されない場合でも無意識の層で働いているが、
いったんこの自省の機能が失われれば、自意識がなくなるばかりでなく、
無意識面でのその働きもなくなる。

つまり、意識の主体を見ることが出来なければ、
その主体があるという意識もない。

内省が不可能な時には、
物事に価値や意味や目的を付与することが不可能である。




人が生まれて自己が発達する段階で、
すでに無自己は予定されているように思われる。

つまり、人の前半生では自己保存が優勢であるが、
後半生では、自己放棄が優勢になる。




自己と『それ』の結合に執着するのは、
一種の不信であると言ってもよい。

この旅は、自己意識から宇宙意識への移行ではなく、
また全体と自己との同一視の道でもない。




客体化なしでも、自分を主体として知ると主張する人もいるかもしれないが、
それがあり得ないことは、私が経験した事で明白だった。

自己を客体として見られなくなってしまうときには、
主体も意識できなくなる。

意識にとっては、その主体は無に等しい。

だが、もしも何かを意識したとすれば、
それは客体となってしまっている。




既知の自己がなくても意識があれば、
その主体があると論理的には言えるかもしれない。

だが、単なる知的な要請として考えられた「自己」が、
現実に知られも感ぜられもせず、働いてもいないとしたら、
そんな自己に何の意味があるだろうか。




自己を意識することは、
「自分が生きていることの活力の感覚」に支えられなければ、
空想と同じように無意味である。自己とは単なる意識の対象でなく、
自分の活力、意志、衝動の根源的な感覚であり、
それが知の働きと結び付いて「これが私だ」という主観的な確かさに
なるのである。




生の活力は「これが私だ」と意識する以前には、
単なる肉体の活力と区別できない。
内省の機能により、自意識が発生して始めて、
その活力を自分のものと思うようになる。
そして、情意の働きの本質は「自分が生きている」という感覚にある。




自己とは、人間の思考を遂行しているものというよりも、
その根底にある生の活力の意識にほかならないのである。

したがって、認識や感情の働きを抑えたり変化させても、
自己を超えるわけにはいかないのは明らかである。

内省の機能が働いているかぎりは、姿を変えた自己が現れるだけで、
この機能を自分で止めることは出来ない。




現在は、人間が生まれてから死ぬまで、あるいは、死後でさえも、
自己が常に不可欠のものとして扱われている。

こういう固定観念に囚われているかぎりは、
自己を超えた次元に目を開くことは出来ないだろう。




自己を保存しようとする力と、
自己を絶滅させようとする力の二つのシーソーの力の中で、
人間の根本的な自己との葛藤が起きる。




自己というものは、個別性のために必要なものではなく、
自己を失った後でも、その者の個性は残るのである。


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