これはマインドが発する質問です
皆さんはどのように思われますか
このような私の疑問質問は上江洲さんのように実際に悟れば
真我から解答が来ることは分かっています
しかし、我々はマインドでしか認識できず、それを知覚や体験、知識におとしてしまう為
本当のことは、如何に深遠な知識や情報で宇宙の秘密のようなことであっても
情報や知識という伝達媒体そのものが、それ自体が
非常に限定されたもの、即ち時空間認識ほかに制約された認識媒体で有るため
否定的にしか、それ以上の全体性のことに対しては言えないのかもしれません
私たち、即ちマインドは「これ」を認識できないと思います
マインドという認識形式では「これ」は「空」「無」としか叙述出来ないと思います
ですので
これらのことの真実の解答は知識でなく
我々のマインドの持つ知覚や知識でなく
悟りから直接の伝達不能な英知で訪れることも分かります
しかし
あえて
マインドからの疑問質問で答えて頂くことは可能でしょうか
在る程度まではマインドの知識としての理解も必要であると思います
なぜならこの迷えるマインドの中ではそれしか
我々には持っていないからです
そして他の人には伝達が出来ないからです
但し、有る程度までで結構です
究極の真実は、このマインドには接近不能なのですから
さて
以下の件で、あなたはどのようにお考えでしょうか
@
−A ディクシャの悟りの効果とは
カルキは悟りとは脳の化学物理作用だと言っております
即ちカルキが与えるディクシャとは高次の霊的なパワーで、
これが直接に肉体の脳に悟りの化学作用を与え、
その結果、活動していない前頭葉や頭頂部などの脳の部位が動き出し、
かつまた自我の作用を行う側頭葉の活動を抑えることであるとも言います。
しかし、それで質問ですが、カルキから与えられたディクシャで変容した肉体脳は、その与えられたディクシャで変容し脳は高次の未知のあるものを受容し、意識作用を引き起こし、
その結果悟るといわれますが、
その変容した肉体脳が死滅した場合はディクシャの作用はどうなるのでしょうか、
その作用は物質界でのみ続くのでしょうか、
その悟りのプロセスは肉体の脳の変容の結果であるとすると、本人の死後、すなわち有機体と肉体の脳の死滅後、意識は無くなり、悟りは消滅してしまい、違う次元での本人の魂や意識にはそのディクシャ効果は消滅してしまうのでしょうか。
それともディクシャは肉体脳を通じてある「自己意識の受容体組織」の変革を引き起こすのでしょうか
@ −B 脳の障害と自己意識の座との関係
ダウン症などの知能障害の場合や脳に障害を持つ人の場合、高級な魂はあえて、人々の為にそのような肉体を選んで下生してくるとも言われています、
しかし、そこでその高級で素晴らしい存在の魂(意識)といえども、
物質界に居る間は肉体脳を通じての意識作用はその障害を受けている肉体脳を経過するため、本人の表面の意識作用、知覚作用そのものも肉体脳に現れているような不自由な状態であるといえます、
しかし、 肉体を離れ他の次元に戻った場合は、
その方の本来の意識のレベルとその状態に戻ることと思います。
これは交通事故や何らかの脳の障害を受けても、
その人のマインドの受け皿としての自己意識の場は肉体とは別に存在していることになります
本人の自己意識の座は何処にあったのでしょうか。
想念帯のマインドを受け取る座のことです
それともマインドそのものが自己意識の座でしょうか
肉体の存命中、この物質界に有って肉体脳とは別にあって意識の座に昇らなかった、
障害を受けている肉体脳の意識の座に現れなかった、本人のより本質的な(自己意識)の座は失われていなかった、
とすると、
やはり肉体の脳と本人自身の自己意識の座は別々に同時に存在していることになります。
肉体以外の自己意識の座はどこにあったのでしょうか、どのようなメカニズムで作用しているのでしょうか
肉体の脳以外に、マインド(想念帯)が機能する場としての物質脳以外の脳が有るのでしょうか
@ −C 頭脳の機能
肉体脳は自己意識の座そのものでしょうか、それとも自己意識の座との相互の受信機械なのでしょうか、または良く言われる、PCのハードウェアのようなものでしょうか
。
PCのハードウェアと考えると自意識の座はどこかにあり、それとは別に
ソフトウェアがありそして、その際のソフトとは設計図のように書かれた、条件付けられた存在で、運命設計図であり、そこに電気というマインドが入り込み、自我という錯覚が生じるということでしょうか、またそのPCを見ている人そのものが観照者でしょうか、
またそれと生命であり、真我であるものは、どこでどう関わっているのでしょうか
また記憶はどうでしょうか
どのように、マインドの結果としての記憶は何処にあるのでしょうか
肉体脳における前頭葉や側頭葉や頭頂部分での役割が、それぞれの部分にあるとは思いますが、
その部分が即、意識の座や記憶の座ではなく、別に存在する自意識の座もしくは場との中継器ではないでしょうか。
むろん肉体には有機体としての「肉体自身の意識」も在ることは在りますが、それは、単なる「肉体の意識」であり、マインドの思考や感情を受け入れる自意識主体というよりは肉体という動物的意識レベルのものであり、一緒にすることは出来ません。
@ −D 同調のことについて
多くの覚醒体験は確かに肉体脳の変容を伴いますので、その変容した脳は高い意識を受け取ることが出来るようになることでしょう。
より高い意識エネルギーを(真のハートから)肉体脳が受け取り(受信し)、それに同調して、近いレベルにまでなった意識の座(本人の実存の意識のレベル場・自己意識の座)に伝え、そしてその結果、自己意識の座が自分の本体である意識を透過出来るようになり(いわゆる同調出来るようになり)、ステージがあがったという方がより明瞭かとおもいます。
この際、ここで同調の原則があるとおもいます
T:本人の自己意識のレベル(実存のレベル・ステージ)と
U:肉体脳の機能・構造的受信的レベルと
V:それに同調する高い意識の真我のレベルの周波数が接近している必要が在るのではないかと思われます。
この自我の座、若しくは自意識の座とは現象界に於ける責任を負う中核であり、肉体を基盤にして順次、本人の肉体と意識から作られていく、各種5つの身体のこととは別の、本人の実存そのものであるとおもいます
またこれとは別に各諸体をつなぎ諸々のエネルギーの通路の媒体としてのスムシュナー・イダ・ピンカラ管や各体をつなぐ役割をしているであろう、チャクラはエネルギーとしての考察なので、ここでは省きたいと思います
地球人類の殆どは、肉体以外の各種高級身体(五つのボディーと呼ばれているもので、エーテル複体、アストラル体、ノエティック体、などと色んな名称で呼ばれている)は未発達で稼働しないままに、この地球だけにあるといわれている、地球の覚醒していない私達が作り出した幽界・霊界・神界と巡回してまたこの物質界に戻ってくるのだと思われます。
しかし、ここで注意するべきは、存命していた人格がそのまま戻るのではありません、人格が載っていた基盤としての普遍性のある全体性のなかのパーソナリティーの観照者が戻ってくるのです
死後には、我々は想念が形成した人格・ワサナやカルマを中有界に置いて、(このワサナとカルマはこの次に生まれ変わった本人にすぐ引きつけられるといわれます)幽界・霊界・神界へと行ったこの「意識の座」は想念で自己のからだと環境を作り出し(高級諸体は未形成のままなので)、そこに生活します。
悲しいかな非常にレベルの低い地球の神界・霊界や幽界は高級諸体(本当であったら存命中にこの肉体から作られたであろうもの)が働く真の高次元界(この界は天界と仮称され、地球だけでなく他の惑星や恒星とも共通の天界を形成する)ではないとおもいます。
しかし我々はそこに地球独自の擬似の死後の世界を構築して、そこに肉体から作り出されたであろう高級諸体を形成することなく、想念形態のボディーを纏って物質界に居たときと同じようにして、覚醒することなく眠ったまま、目が覚めたと思いこんで住んでいると思われます。
もし、生存中に、我々がそれらの諸体を正しく形成していたら幽界や霊界、神界では自由に動けることでしょうし、そこの界では我々は不可視の存在としてその住民には見えないのではないでしょうか。
さて、そして私達にはコンタクト不能な本体の意識が転生に備えて高次界に行くとき、我々の未発達な諸体は切り離されます、そして、それらはかつて肉体の死で、肉体が地にもどったように、その形成されなかった諸体もその階層の元素にもどっていくことでしょう。
そして再びこの物質界には条件付けの設計図を受けとって、眠ったまま、聖なる催眠をかけられて転生します。
「肉体は私ではない」「マインドは私ではない」「自己は存在しない、私とは観念である」との認識を行っている状態の自己意識は、真の意識に同調できた脳と自己意識主体ですが、それは脳とは別にあると考えた方が、すっきりします。
そこで悟りとは肉体の脳での化学作用の変換の直接作用ではなく、有る別の高次のエネルギー(真我)が悟りの根源であり、その根源から受け取ったエネルギーが、自分という自己意識の「座」に伝える受信器としての脳の根本構造を変えたのだ、
と考えた方がすっきりすると思いますが如何でしょうか
しかし、ここで同調の問題が残ります、自意識の座と肉体脳そして恩寵のエネルギーが同等の波長で無ければ、肉体脳だけに高いエネルギーが来て受け取っても、
自意識のレベルが同じでないと、同調できないと思いますが、如何に思いますか、
即ち悟りは起きないと思いますがどのようにお考えでしょうか
@−E
意識の座について
私達は肉体には、それ自身の有機体としての意識が存在することを、(数多くの事例でわかるように脱魂状態で応答している有機体として、肉体自身の意識があることを)知っています。
また肉体の各器官からの脳へインプットして起こる感覚とは別に、その器官そのものの意識がそれぞれに存在していることが分かっています。
また多くのワサナ(主に過去世にて作り出した過去・現在・未来の自分の人格=想念形態であり自意識と記憶は持っているが生命ではない)が自分の有機体にとりついて共生していることも多くで示唆されています。
多くの意識が自分の有機体にて共生し、またどのようにしてこの自己意識の場に自分自身としての意識を持って現れるのかはハッキリしませんが、
自分の記憶も、そしてまた受胎時に、この自分の有機体に繋がったとされる条件付け・設計図も、肉体外から入力される感覚も、想念帯から入力されるマインド・思考も、全てが自己意識の座に集中してきて集約しているのだと思います、この自己意識の座が通常は意識又は現在意識と称されるものです
。
しかし
ここでさらに
記憶の場を含めての問題が提起されます
一方では、また観照者の意識は厳然として「I AM」として存在していると思います、
それは条件付けにきづいているもの、
「見るものは見られるものである」を気がついているもの、
主体と客体はひとつであることを気づいているもの、
「あるがままをあるがまま」みているもの、
あるがままは完璧で完全であることを体験し、きづいているもの
思考の隙間である存在、
又は思考の隙間に気がついているもの、
マインドの動きと働きを正確に見つめているもの、
この状態こそ、大文字のマインド(これは肉体の頭脳に入力してくる想念帯のマインドでなく、ワンネスの全体性の記述不能な、今の人類にはアクセス不能な非個人的で宇宙的なマインド)にアクセスできるものだと思います。
現在のこれを読んでいる「現在の私」と「繋がっていない私本体の意識」とに大きな乖離があります。
ひょっとするとこの「現在の私」は全てマインドが作り出した「ファンタムセルフ」であり、マインドが作り出した
幻想の「自己」と「自己意識の座」と思っているものなのかもしれません
意識の座とは即ち私の存在のレベルとは全く同じだと思いますが、この現在の意識の座とそれらの意識とはどのようにして意識の焦点が遷るのでしょうか
、マインドがマインドに気づく結果なのでしょうか
肉体脳にはどのようにして繋がっているのでしょうか、玉響とはなんでしょうか、
また自己意識の座と肉体以外の5体とはどのような関係に在るのでしょうか
サイキック体にあるチャクラとはどのような相関関係でしょうか
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