質問者:何故ハートに対して瞑想するのですか

ラマナ・マハルシ:あなたが意識を探し求めているからです。あなたはどこにそれを見いだすことが出来ますか。あなたはそれを外部で手に入れることが来ますか。あなたはそれを内部で見つけ出さねばなりません。それ故あなたは内面に向けられます。
更に言えば「ハートは意識の座に他ならない」のです

ラマナ・マハルシ:思考活動は脳、従ってエゴの周りに集中されます。それはそこでハートからの血液によって栄養を与えられます。従って思考は最終的にはハートから流れ出るものです。

ラマナ・マハルシ:もし光ーそれは認識者あるいは意識ですーが見えるならば、見られるべき対象はないでしょう。純粋な光即ち意識は、それだけでとどまっているでしょう。光が見えたというだけでは充分ではありません。






1:意識の座とは「自分の意識」ということを前提にしているが、そもそも自分のこの意識なるものを、実際に調べてみるとマインド(複数・条件付け)が有るだけで、「自分の意識」ではない。またそもそも「自分は○○」と言う観点はマインドが作り出しているので、自分という感覚を生み出したのはマインドである、従って、自分の意識の座はどこにあるかというその疑問自体が個別性二元性を含む、虚偽で実体のない疑問であることである。


2:意識そのものは時間と空間に制約されていないので、3次元的にある場所(たとえば胸のハートの中心とか、頭頂のサハスララとか肉体の有る部分)に焦点が合っている、そこにあるとう考え自体が意識の持つ性質とあまりにもかけ離れている。

即ち、この空間と時間の物質界並びにその思考の制約を受けて、肉体的にそして時空間的にしかマインド思考は働かないので、意識そのものをも、それと同じように三次元的に時空間存在と考えてしまっている、質問自体の誤りである。

「意識の座」とは「意識そのものの全体性」であり、正確には空間的には何処にもあり、時間的には過去現在未来の区別は必要ない、どこにも同時に存在していると思われる。


3:意識は正確には他人の意識と自分の意識に分割できない、そう思っているのはマインド(想念の集合的マインド及びマインドが作り出した人格とワサナ、それと条件付け設計図など)であり、だからこそ「自分の意識の座は何処に」などというおかしな質問が出てくる。
意識は一体であり全ては深く繋がっている。


4:自分の魂・たまゆらなどは正確には有るエネルギーの場であり、その有機体に起きることの運命の設計図であり意識の本体ではない。

輪廻転生自体が自分の存続を望んでいる人格・マインドが継続存在するという虚偽の現象を生み出し、人格に焦点を当てた際に作り出した概念システムである。

今生の人格は、過去の幾多の生において作り出した私(複数)という人格(ワサナ)と一緒に、この意識(観照者)に縁ゆえに有機体にとりついたもの達と一緒に、この肉体と同一化した結果作り出されている。

実際は「意識そのもの」は転生していない、意識そのものは数多くの肉体という衣裳を纏いながら、生まれることもなく、死ぬこともない観照者である。

しかし記憶は観照者に刻まれ、幾多の生の記憶はそこにある。

想念帯のマインドは幾多の人格としての生に於ける感情や思考の全てをマインドとして記憶している。

「たまゆら」は今生に於けるその肉体のもつ運命的な設計図であっても「自分の魂の設計図」ではない、意識が問題になるとき「魂」は実際に存在していないのだということをもっとハッキリ自覚すべきだろう。


5:言葉に非常に正確で有るべきである、問題になっているのは「意識」なのか、それとも、本来存在していないのに、肉体と一体化したマインドの観念が生み出した人格やワサナなのか。
ほんとうは個人的な自分は存在せず「意識」しかないというのに。

しかし自分には全く自由意志というものが存在しないということが本当に分かったとき、そこに自由が発見されるように、自分とは全く幻想で有ることが分かったとき、私は他人でもある聖なるパーソナリティーがそこにある。





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