プロセスで自分はどのように変わっていくのか
       (私の親しい友人に実際に起きている変化を記述しました)


@鏡を見て、鏡に写っている自分の存在を他人のように感じ始めている
そして肉体の存在感が薄くなってきている
手を見ても自分のものという感覚がない

A喜びが歓喜が常に沸き起こっている、これは全ての体験に、ジャッジメントが介入していないので、良くなろうとか、ねばならない、とか在るべきだ、というマインドの働きなしに、その体験を体験しているのでエネルギーが損なわれることなしに、そのエネルギーが変換して喜びになって体内からわき上がってきている



B電車などで他人のマインドが入ってくるが、それも完全にマインドの介入無しで体験することで、聖なる体験、歓喜の体験になっているのを感じる


Cこの体験している状態には二元性はない、善悪の判断、好悪のジャッジはない、体験しきったとき全ては聖なるもの、喜びの至高なる体験になっている




Dそして自分はますます「普通の人」になっていくのを感じる(マインドはエゴであるため、その状態では自分は特別で、普通人では無いと思っている)
他の人との自分との境界が薄く感じらる
(愛のある人は自分を愛がある人とは認識しないだろう、聖なる人は自分を聖なる人とは思わないだろう、恐らく自分の存在そのもの、分離した感じが薄くなってくるだろう、従って自他の分離感が少なくなるので、自分は○○という感じが薄くなるだろう、意識はこの状態を否定的に表現するので、肯定的には表現しないだろう)




Eこれらは全て、自分がすることではなく、自分に起こってきていること、人為的な要素は全く無い、完全に聖なる意志で起きている。
瞑想も行う場合は、それはマインドが起こることを期待しており、マインドが強く働いていて、マインドが強く働いている。
それは真の瞑想ではない、真の瞑想はそのようにマインドが企画し求めたものでなく、座らなくともいかなる時でも自然に起きているので、人為的に行う瞑想は、本当の瞑想を否定するものである


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