攪乱・自己認識の重要性について
人生の追いつめられた状況の中で
また人生のなかに突然訪れた攪乱状態の中で
あることで自分がかき回されたとき
マインドの中に沈殿している、狭雑物が意識に昇ってくる…私自身として……
私自身が露わにされる。
それは私であると同時に私でないものである。
そうだ
それらの私(マインド)が認識できる私自身は全て真の私ではない。
真我は対象ではない、客体ではない、又客体を認識しているときの主体でもない。
認識の対象として自分自身の中で発見される自分自身(私の人格・ワサナの思考、想念、感情など)は
真我ではない。
(このような、見るものの自分と見られるものの自分が、分離している二元性の中での、対象としての自分(捉えられるものなどの葛藤等)はすべて真我ではない)
マインドとしての私が、自分の中に、発見する私自身であるもの、即ち、恐怖・暴力・葛藤・二面性・不安・狡猾さ・排他性・嫉妬・欲望・好色・偏狭性・無関心・商売ずるさ・ビジネスマン・独善性・支配欲・愛のなさ・思いやりのなさ・感じることのなさ・感動することのなさ………等々。
この発見することは、安逸な将来の不安が全くないような、一見物質的に安定した保証された生活の中ではなかなか発生しない、
だからこそ、自己発見の為に、眠りから揺さぶられることは、非常に大切だし、有効でもある。
攪乱が非常に有効な手段だ
自分ではない自己の発見の旅に出るキッカケとして。
このような機会は自己発見のためには欠かせないし、有り難いことである、辛いことだが、しかし、そうなのだ。
自分の中に自分自身(即ち真我でないもの)を発見することは、浄化の為にとてつもなく必要で、大切だと思う、特に潜在意識のなか、無意識の中に隠れて、沈殿しているものが意識化されなければ、自分自身がそれらに操られてしまうだろう。しかしそれを非難したり、それから逃げようとすることは
それに取り込まれることだ
その浄化・自分の潜在意識の顕在化がなければ
自分は愛に溢れている、私は喜びに溢れている、私は悟っている、私は知っている、私は神に繋がっているなどと全くの錯覚に捕らわれるだろう、無意識から、潜在意識から操られることだろう
だからこそこの攪乱には非常に価値がある
自分ではない自分が露わにならなければならない。
真実の自己発見の道には、この攪乱が必須である
でなければ、自分に騙されてしまうのだ。
それが、人生の何かの機会で、何かがキッカケになり、いきなり崩れたとき、その自分の中身が自分の中に発見される、表面に現れてくる、露わになる、自分自身として。
しかし、その自分自身は本当は自分自身ではない、自分自身として認識されたマインドなのである
そして、その自分自身として認識された、それ自身から、その自分自身から逃げようとしたりして、もがく。
そしてその中に更に捕らわれていく、
又は自己観察をしようともがく、マインドがマインドを見て見ているつもりになる。
私は観察していると錯覚する
が、これは自己観察ではない。
しかし、ここからが正念場である
それらは私自身ではあるが
それらをどのようにみるかである
それらをどのように見ているかが非常に大切である
自分自身を観察している、といっても自分自身のそれらを、対象としてみることは、なんの変革も、もたらさない。
自分自身を見る見方が問題なのである
二元性の見方では見ていることにはならない。
自分に見られているそれらの「自分の中身」・「マインドの中身」は即ち「マインドの思考、想念、感情などのそのもの」であるから、
必然的に自分(マインドとしての)がそれらを見ている見方は自分そのものを「対象」として見ようとする
即ち「見るものは見られるもの」なのだ
マインドがマインドを見ている状態である
しかし、それらを対象として捉える方法は「真の見ている」ことではない
見ているものは(即ちマインド)自身なのだ
この現在のマインドとしての私では真の認識できない。
クリシュナムルティーやラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ達の「見る」は全くの別次元、いや次元が違う以上の違いである
それは、必ず起こる
私は招くことは出来ない、私がいるかぎりは