死後も想念で作った身体は

この物質界の肉体との同一視、及び、その肉体としての記憶に基づいているので、

迷いは続く、

もっと深く、

そして物質界にいたときと全く同じように、自分の身体と思っている。

この肉体はもう無いのに、肉体と同じものが、想念体で作られ、続き、本人は、肉体が続いていると思っている。

悲しいことだ、

痛ましいことだ。

同じ顔をし、同じような服装をし、自分のなかを見て観察すると、同じわたしの主体で同じような内界が続いている。

死後も「私は肉体ではない」には至っていないのだ
自分を身体だと思っているのだ


ところで
認知症の場合の、肉体脳にある記憶の一時の損傷も、
死後の自我にある記憶そのものは損傷を受けていなことから

認知症の記憶忘失現象は

「現在意識の場」においての
肉体脳からの、一方通行によるこのシステムが引き起こしたもので、あった事が分かる。

即ち

現在の我々人類の状態は、記憶とは肉体脳から認識の主体である「現在意識の座」へ記憶たる想念・マインドが一方通行的に届くと言うことだ


肉体脳そのものが認識の主体ではなく、あくまで認識の主体である「現在意識の座」は別にあるのである。


記憶そのものは、肉体脳だけでなく記憶する自我の座にもあり、
死後(又は体脱状態での)「現在意識の場」には、肉体脳からではなく、自我の記憶の場からのマインドや思考、想念、感情としての記憶が同じく一歩通行的に届く。
これは、物質界にいたときと基本的に同じ構造だ。

いずれにしても、生前と全く変わらぬ「物質界での記憶」と条件付け、反応方式は続いていくのであり、生前と同じように、物質界で作られた肉体との同一視は続いている。(これも体脱状態でも同じ)

霊幽界で、自分はもう物質界での生存はしていないのだ、死んで幽界や霊界に居るのだと納得していても、、
物質界の時と、同じ肉体との同一視から作り上げた身体であり、同じ物質界での記憶が、また、性向が、条件付けが、続き、本人そのものを支配している。

霊幽界独自の環境もあることにはあるが、本人が物質界にいた時と同じような環境も持ち込んでミックスしており、多くは物質界と同じ環境を作り出し、内面的にもまた同じ、自我の環境に住むことになる。

従って「私は肉体(又は肉体と同じような身体)ではない」という、非二元性の理解には、ほど遠いのだ。

自分を個別の他とは分離された身体で在ると錯覚しているのだ。

個別性に支配されている。

物質界に居たときの肉体とそっくりの身体で…。


この「肉体は私ではない」の理解は、
私が肉体を基盤として作り上げた、「サイキック体などの身体」と自分を同一視している以上、

それは分離であり、葛藤の根源の間違った認識であることには変わらない。


これは体脱状態にもいえることで

肉体以外の身体と自分を同一視して、

根源的分離状態に陥っている。

二元性に、より深く陥っていることは明らかだ。

体脱状態は「私は肉体ではない」の気づきにいたってはいない。

むしろ体脱は、もっとより深く肉体との同一視を招くものともいえる。



現在意識と肉体脳、

即ち2種類の記憶の場があるようである、

即ち肉体脳の記憶と、

自我の座の記憶である、

この両者の関係はどうなっているのか、
これがどのようにして「現在意識の座」と繋がっているのか

この肉体脳でない「自我の記憶の座」を一般に「魂」・又は「たまゆら」等と呼称しているのかもしれない。
そして、それとは別に、「現在意識の座」とは真我のハートが成立させているのかもしれない。


だから物質界で生きている人の中で、一時的に魂が抜けていても、通常の生活や生存は出来ることになる。



ここで一番大切なのは「息」即ち「呼吸」、及び「心臓」即ちハートである。




私にはまだハッキリしないが、この呼吸こそは現代常識のいうところの酸素の出入り以上に、非常に大切であり

自我に関連しているとおもう。マインドに関連していると思う。

魂に関連していると思う。

記憶に関連していると思う。

自我である魂は吸気で、物質界に来たり、呼気と共に去る。

マインドの本体であり、かつまた、たたまゆらである自我・魂は、「息」に直接に深く、関連しているようにおもえる。

自我の、マインドの本体である魂は「呼吸」に関連して存在しているように思えてならない。

だから魂は吸気で肉体と繋がり、誕生し、呼気で肉体との繋がりを失う。

たまゆらは魂ではないか。


そして最終的に
心臓近くのハートに焦点のある、私の核の真我は、心臓を生かし、呼吸を成立させており、最も根源的存在だと思う

心臓を生かしめているハートが、自我であるマインドの呼吸を成立させているのでないか、そして魂の存在をなりたたせているのではないか

心臓を生かしているハートが、マインドの、自我の、魂の、意識の存在を許し、支えているのではないか。

ハートこそ真我。



ハートは来たのではない、ハートは偏在であり、ハートに来たのがたまゆらなのである、魂なのである。

肉体は神の設計図に従ってこの現象界に、神の映画を成り立たせるために出演者として存在しているのであって、私ではない。真我ではない。

真我であるハートは最初からそこにあり、時間と空間を越えている

ハートは非二元性である。


心臓を生かしめているハートが、自我であるマインドの呼吸を成立させているのでないか、そして魂の存在をなりたたせているのではないか

心臓を生かしているハートが、マインドの、自我の、魂の、意識の存在を許し、支えているのではないか

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