否定的接近が解放への道である。そしてそれは逆説である。
とクリシュナムルティーやニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシ、は言う。

解放の道とは否定的接近からで、逆説的なのだ。

このマインドの「私」を「正しく曇りない目で見ること」が解放の道であり、これこそが逆説的なのだ。
「あるがままをあるがままに(見る)こと」が目的であり、解放の手段であり、解放そのものである。
本当のあるがままとは真の私のことで、全ては真我だと言うことである

自我の根源の想念を凝視することの中に、自我からの解放があるという。

真我には肯定的には接近できないというものだ。
即ち
真我ではないもの、を、これも私ではない、あれも私ではない、と
私ではないものを全て否定することによって
接近する方法を
否定的接近という。

これが
真我ではない、自我の根源に至ったとき
そのときこそ、逆に自我を超えて
真我がいるのだ、という。
逆説である。

自我の根源に至ったとき
真我が現れる、といものだ。

その際は
「見ること」が唯一の手段である。
「見ること」。
ただ「見ること」。
ただ思考なく「見ること」だと。

だから
私の、内なる根源的想念である虚偽を、自我を、恐怖を、不安を、暴力を、愛のなさを。
正しく見ることを求めべきであることだと思う。

そして「愛に溢れている」、「私は至福に満たされている」などの、肯定的自己イメージの裏に、いつも潜んでいて、表になかなか現れない自我の根源である、その想念そのものを「見ること」、その私の動きを「見る」ことだ。

その自我の根源を見る。
その「見ること」の中に
この、マインドによる自己観察を続けている中に
(この見は見られるものが見るものを作りだしていること)

同じマインドである見るものは見られるものも同一であることの中に
(ただ同一化もせず、ジャッジメントもしない、凝視の中に)

このぎりぎりの中で

何も出来ない
何もしない
…………。
ただ座る
ただ在る中に
ただ見ていることのなかに


突然、

恩寵が加わる。

奇跡が起きる。

「虚偽を虚偽と見ることの中で、虚偽の中に真理を見る」の奇跡が。

恩寵が加わる
グルが、真我が関与する

そして

起きる、
おこる、という。

見ている主体が消える、という,恩寵が訪れる
無我である。

これが逆説である

「自我の根源を見ていることの中に、真理が現れる」。というのだ。

私はいない、無我という。事が起こる。

これと同じ様に

「私は誰か」のラマナ・マハルシの真我への道も、私という自我の根源の想念に至ることで達せられるという。

これはまさしく、否定的接近であり、そして逆説である。

ー自我は見られることの中で、見ているものが消滅し、本当の眼である真我が始めから在ったー

ことが了解されるのだという。



「私は誰か」のラマナ・マハルシは、真我の発見とは、自我の根源の想念に達することと解説しているのだ。

これはとりもなおさず、まさしく逆説であり、この方法が、真我の実現と自己からの解放をもたらす唯一の道なのだという。


これが真我への道であると、私も深く確信しているのだ。


ネティー・ネティー(私はこれでもない、あれでもない)がはじめてここで起きる。

クリシュナムルティーの「虚偽を虚偽と見ること、虚偽の中に真理を見ること、真理を真理と見ること」も同じく、全くの逆説的接近方法であり否定的接近である。
ラマナ・マハルシと全く同じである。

逆説・否定的接近により私達マインドにとっては、真理・真実・愛・ワンネス・等の全体性・非二元性などへは、自分からは、何かの方法で、自我の意図によっては肯定的には近づけないと言うことを、ハッキリと示している。

逆に

肯定的な方法は、私達を眠りへと、深く誘われ陥ることを示している。

だから
「私だと言っている私はワンネスではない、それは愛がない、恐怖であり、虚偽に満ちている!」のだ。
これを見ている所の主体そのものと、この二元性のシステムを見続けるのだ。

「見るものは見られるものである」
偽りの主体であり、偽りの客体であるものは同じだ。

低いレベルでのこの見るものと見られるものは同一であることが理解される

これはマインドレベルでの理解だ


これはとりもなおさず真理・真実・愛・ワンネス等の全体性・非二元性などへ道は、マインドである私達にとっては、このプロセスを経なければならない、ということだとおもう。即ち逆説・否定的接近であり、

これこそが逆に

本当の奇跡の恩寵に至る道なのだ。

私達はこの逆説と否定的接近である、ただ「見ること」という唯一の方法で

真我でないもの、わたしでないもの、そうでないものを一つづつ、落としていくのであり、

それらの真我でないものから「これは私でない、これは私でない」と解放されていく、方法である。

本当に見るとは神なる私を見続けることである

そこに真我が恩寵により、自動的に出現するというのだ、と思う。


これは、とりもなおさず私にとって「真の私を真の私」と見ることなのだ。
これこそ私達の人生であり
生きているワーク、そのものであると思う。




これに反して
マインドの天才達による
マインドからのアクションがある。
肯定的に接近しようとする方法である。

言うなれば、非二元性に達成できる、達成できる「方法」が存在すると思う仕方だ。

同じように
多くのチャネラーや自称神の使者など
ダビンチの現代版のようなスパー天才が、その天才頭脳が
二元性の方法で、即ち知識や、情報という手段で
私達に宇宙の仕組みを神智学的方法と科学の実証方法で解明し
そして、究極の非二元性をも手に入れる事が出来るというものだ。

しかし
そうだろうか
否定的接近による逆説ではない、肯定的な方法が
あるのだろうか。

マインドがそれに至れるのだろうか。

それは、真の理解をもたらさない、のではないか。

私は強く思う。
私達からの方法はないのだ、達成する方法はないのだ。
肯定的接近はないのだ。
接近しようとしている「わたし」そのものを理解することが
一番大切なのだから。

天才達にとっては
「自分」の存在も
宇宙や時空間も
知識として、情報として「宇宙の解明、時間空間の超越」などを理解できると、思うかもしれない。

しかし、その方法そのものが
「知られる対象」を主体とは別の客体として存在していると思っていることから成り立っているのであるから
(即ち、それは「二元性」の認識方法である)

「私」や「宇宙」を
対象として、客体として、認識対象としての客体としている限りは
「私」や「宇宙」に出会うことはない。


それらは、本当に

絶対主体を通じてのみ、出会い開陳されるのではないか、無我として、「一つのわたし、全てが一つの、個別性が消滅した真我」として。
「I AM  THAT I  AM」として

従って
真のあるがままは客体ではない、対象ではない。

真の客体は「わたし」であり、「私と分離不能な一つ」なのだ。

純粋主体からのみの、道があるのみだ。
この全体性と非二元性の中で「ひとつ」のなかで
みられる自然も宇宙も、神も、私も、次元も自らの仕組みと神秘を語り始めるだろう。

これはマインドでは知ることが出来ない。
到達できない。
未知である。
沈黙と空と無の中に
無我の中に
現れる

だから
前述のスパー天才達の、マインドからの肯定的接近方法は
逆に、あるがままから離れ、全体性から分離していく、と思う。

だから
宇宙の知性体や、神々や、スーパー天才が
対象の体験として、理解として、自分を知り、次元の仕組みを知り、神々を知り、宇宙を解明し
宇宙の知性体との接触、コンタクトなどからの得た知識、として高度の理解を得ることが出来きたとしも

それらは無知だ。
無知に過ぎない。

また同じく
この自分が「することと」して、行法や瞑想を通じて、私は自己変革が出来るという人もいるが
が、しかし、いくらそれを強調しても
そこには
行為者がいる
観察者がいる
わたしがいる
従って
そこには、それを認識している、行為者である本人である「私」からの解放がない。
だから
自我からの解放がない。
主体からの解放がない。
解放がないのだ。


これらはマインドからの方法は解放をもたらさない。

私からの解放をもたらさない。

いま、安易にワンネスを説き、愛を実感して、感動の世界に導入する方法が、巷に氾濫している。
安っぽい、神の世界が氾濫している。
思いやりをとき、私達が簡単に、そのような愛と全体性の至福を体験できると称して、色んな方法が蔓延している。

私達が「すること」「なること」「向かうこと」で……。

又、同じように、
数々の薬物や
フラワーエッセンスに留まらず、
タントラや
マントラ、そして
波動の機械や
水晶や宝石それに類する、
数多くのシステム、霊的方法、
波動機械による方法、
次元的方法、
瞑想、
宇宙からの行法、など実に様々である。

しかし

それらは
解放をもたらすだろうか。
この二元性の桎梏からの解放をもたらすだろうか。

それらは
この私からの解放をもたらすだろうか。

それは全て言うなれば「なること」であり
「在ること」ではない。
「なること」は幻であり、
逃避に過ぎない。



目を内側に転じ
自分に留まり、なのもせず、ただ、この現在の状態の最悪の私に、留まり「在ること」。

どこにも行かないこと。

ただ
在ること。

ただ
見ること。

ただ
あるがままの私を
見ること。


しかし
現世の幻に心奪われて、現実である「苦」を感じれない人は、これを希求せず、
「私は幸福になればそれでいいの」という、
この現象界は実は「苦」そのものであるというのに……。
もうその人には、何も言うことは出来ない。
その人は、この三界を夢の中に生まれ、そしてまた目覚めることもなく、転生の災禍のなかに過ごす。

私は目覚めたい。
私は「苦」なのだ。

私は
みんなと一緒に、この夢から醒めたい。
解放されたいのだ。

だからこそ、深く思っている。

真理や真実なるもの、愛、沈黙、ワンネス、聖なるものの非二元性・全体性へは
肯定的接近という方法は存在しないと。

自分から獲得できる方法はないし、このマインドの自分から近づける方法はないと思うのだ。

今まで、60年間ずっと学んできた、その結果
以下の結論に達した。

唯一の方法は
否定的接近において、逆説的におこると。

そして、具体的には
「私は誰か」の、
この真我の探求こそが

その探求の「見ること」が
奇跡をもたらすと。

「あるがままをあるがままに見ること」の奇跡を

「見るものは見られるものである」の奇跡を

「観察者は観察されるもの」であるの奇跡を

そして

沈黙のなか

そして

それが
奇跡をもたらす
解放をもたらす

非二元性ははじめからそこにあった…のだと。


解放をもたらしたのは

逆説・否定的接近だと。
「私は誰か」である。

これである。

これしかない。

そして、これは

肯定的ではない。

私は以上を確信している。


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