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不安に「不安」というレッテルを貼るな

内部に発見される恐怖や暴力を

恐怖、暴力と呼ぶことは、又はそのように名付けること自体が見ることを妨げているのだと教えられている

そのようにレッテルを付けることが、その葛藤を増大し、それから逃避していることなのだ、といわれている

私たちの通常の場合はどうだろうか

自分の意識にやってくる恐怖や暴力や苛立ちを、それを認識した途端に「恐怖」「暴力」「苛立ち」と名付けているのではないだろうか

そして、名付けたことで、何か分かったつもりになって、それ以上は面と向かい合わないで逃避してしまうのではないだろうか

それらをじっくりと無心で見るという貴重なる機会から「外れて」しまったのではないか

けれども私達は、これらの思考と感情に同一化することなく、逃げることなく、留まることを選択したい

そして私たちはそれを実習することの出来る機会を与えられていることに感謝したい

それらの「葛藤」を「葛藤」と名付けないで、レッテルを貼らないで、それらを「感じ」「味わい」「傾聴し」「受動的に凝視する」事が出来るようにしたい

教材を与えられている

それは有り難いことである、これこそが真の学びである、これこそが真の私への「門」である


内部で発見できる「気づきという意識」にやってきている、それらの「名付けることのない葛藤」をじっくりと拝聴し、拝見し、味わうとき

それらの「葛藤」は実は自分自身でもある、と教えられている。

自分がそれを認識していると言うことが、(その認識している対象こそが)実は自分であるからこそ、そのようにそれを認識できるのであると教えられている


上江洲義秀先生は「私には全ての人全部が、光り輝き、完全で完璧で素晴らしく見える」といつも言われる、「あなたは私である」といつも言われる

私はこれを聞いていて、今の、はやりの精神世界の中に散見されるように

世の中に「善人と悪人」とを、「ホワイトとブラック」とを説き、世界と宇宙には、「天使と悪の勢力」の壮大なる闘争があるの事を説明している人とは、
それを説明し見ている人自身の中に善人と悪人がおり、ホワイトとブラックという二元性と分離性に支配されており、それらの範疇に有るのだと言うことを自身で暴露していると思われるのだ

それは決して上江洲義秀先生のように「あなたは私です」「あなたは全てと一つで、既に完全完璧です」「全ては一つで一命一体です」とは言わない

何故なら、彼らは口では至高なるものと超越を語っていても、マインドという分離性の範疇に有り、自身が内と外に善と悪の闘いを見ていることで、その観ている人自体を暴露してしまっている


マインドを超越している人には、「あなたは私」であり、「全ての人が一つで愛そのもの、キリストそのもの」であることを実際に体験し、そこの実在にいるからだ、最早、自他の分離はなく、内部と外部の分離がないのだ

だから「私の中に世界が在り、宇宙が在る」と言えるのだ


それに反して壮大なる宇宙の歴史と構造と進化を口にしても、その宇宙を、対象である外部に見て、自身が分離していること、自分と対象が別々に在る事、距離と時間があること、と思っていること自体が、マインドの最大の特徴であることから、それを説いているものこそが、全体である「気づきという意識」ではないことを自ら証明している


では、その「気づきという意識」は何処にあるのだろうか

多くの覚者に言われるように、実はそれは、この葛藤の中にあるのではないだろうか

この「気づきという意識」があるから葛藤というマインドが去来できるのではないだろうか

無限の空間という「気づきの意識」があるから、時間や次元というものも、そこに来ては去っていくマインドも仮象できているのではないだろうか

葛藤を名付けることなく、同一化することなく、非難することなく、受動的に拝聴し、言葉なく見て、抱きしめるとき、

そして抱きしめ、その今まで逃避してきたものを味わったとき

「見ているものは見られているもの」であるという奇跡の中で

泥の中から蓮の花が開花するように

美しい愛の花が芳香を放つと言われているではないだろうか

何処にも行く必要がない

何にも成る必要がない

何をする必要もない

何も願う必要もない

何も行う必要もない

既に、今此処に在る

と覚者は言われる

このマインドと葛藤の奥に、それを成り立たせている基底こそが

「気づきという意識」である



ガンガジは最近の著書「ポケットの中のダイヤモンド」で私たちにそれを詳しく直指して下さっているではないか

(ガンガジはラマナ・マハリシの弟子であるプンジャジの愛弟子で光明を得ているといわれているアメリカ人女性)